麻生氏の「手口学んだらどうかね」発言再び

何を今更の麻生太郎氏の「あの手口学んだらどうかね」発言だが、とても重要なことなので、また書く。


ネットを巡回していると、世の中にはリテラシー能力の低い人がいっぱいいるということを実感させられる。しかしそういう人を俺は見下さない。そういう人だって俺よりずっと優れた能力を持って社会に貢献しているだろうから。しかし知識人に関しては別だ。その中でも文系の知識人、特に歴史学民俗学の知識人、つまり史料を解読する能力が必須の知識人が麻生発言についてトンデモ解釈をしているのを見ると本当に情けなくなる。麻生氏のことは正直どうでもいい。そうではなく、こんな低いリテラシー能力しか持ち合わせない人が歴史学民俗学の分野にいるのなら、その専門分野においても何かやらかしているのだろうと思うと暗澹たる気持ちになるのである。


麻生氏の発言は確かに理解するのに困難なところがある。国民に対して訴えかけることが必須の政治家として問題があることは否定しない。だから誤解する人が出てくるのは誤解した人にだけ責任があるわけじゃない。しかし歴史学民俗学においては、史料の解読が困難だからといって、この文書を書いた奴が悪いのだといって都合よく解釈していいものではない。史料を書いた人が全て高い教養を持ち合わせた人だとは限らず誤字・脱字や文法上の間違いや、間違った知識や認識、その他いろいろの問題がある史料があるだろう。そういったことがあることを前提にして正しい解釈をしなければなるまい。


また麻生氏を批判している人達は、たとえ麻生発言を正しく解釈したとしても麻生氏を支持することはないと思われる。「結局のところ麻生発言は批判されるべきだ」ということになるだろう。だからといって間違った解釈を放置しても良いなんてことがあるはずもない。正しい解釈をすると同意可能なものと違って、正しい解釈をしても同意不可能なものに関して誤った解釈を修正することが困難だというのは人として理解はできる。敵を攻撃しているときに味方にも問題があるということを主張すると、裏切り者のレッテルを貼られ味方から袋叩きされるという光景は良く見るところだ。しかしそれは学問的な態度では全くない。


で、麻生発言について


麻生氏の発言の詳細は朝日深部の記事をソースとする(現在は見れない)
朝日新聞デジタル:麻生副総理の憲法改正めぐる発言の詳細 - 政治

だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。

ナチス憲法」なるものは存在しない。麻生は間違っているという人がいるけれど、しかし、ここで言っているのは「ワイマール憲法が変わって」であって、「ワイマール憲法を廃止して新たにナチス憲法を制定した」という意味ではない。そうではなくて「ワイマール憲法の条文は変わってないが質的に変化した」ということだ。


それはたとえば、ウィキペディアの「ヴァイマル憲法」の記事の「問題点」という項目にある

当時の憲法解釈では首相指名には議会優位説がとなえられており、エーベルト大統領は議会の支持が得られる人物を首相に任命していた。

この情勢を解決するため、首相指名には大統領の権限が優先されるという大統領優位説が次第に浸透するようになった[6]。

ヴァイマル憲法 - Wikipedia
というような変化を指していると考えられる。重要なのは「次第に浸透するようになった」ということでしょう。麻生氏は

ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。

これを多くの人が全権委任法のことだと考えている。俺も当初はそう考えてしまった。ところが全権委任法が決議されたことを「だれも気づかない」なんてことがありえようか?もちろんありえない。そこでおかしいと気づくべきだ。ところがこれも「麻生はバカだから全権委任法が決議されたことを誰も知らなかったと考えているのだ」という方向で解釈して、全件委任法のことではないのではないかという方向で考えようとはしない。それは意識してか無意識かは知らないが「麻生は間違っている」という大前提の元で考えているからだろう。


また、麻生発言には

私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、 そうしたものが最終的に決めていく。

とある。「憲法改正」の話ではなくて、改正された憲法がどう運用されるかは議員の見識や矜持などにかかっているという話である。つまりどんなに良い憲法でも運用次第だということで、運用を間違えればワイマール憲法の二の舞いになるということだ。だから

本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね

とはワイマール憲法が質的に変化してしまったことを述べているけれども、そこで想定しているのは「新憲法がワイマール憲法の二の舞いになってはいけない」ということであって現行憲法の改正の話をしているのではないし、現行憲法の解釈を変えるという話でもない。なぜそんな解釈をしてしまうのかというと「本当に、みんないい憲法」といえば現行憲法のことだと考えているからだろう。


たとえば、誰かがTwitterで「今日のランチは私の大好物でした」と書いたとして、自分の大好物がカレーライスだから「この人はカレーライスを食べたのだ」と考える人は滅多にいないだろう。それは自分の大好物なのであってその人の大好物とは限らないからだ。そんなこともわからない人は日常生活にも支障があるのではないかと心配になるレベルだ。ところが多くの知識人までが、そんなレベルの間違いを犯しているのだから情けない。


そして「静かにやろうや」とは、「喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない」ということである。なぜ「喧噪のなかで決めてほしくない」のかといえば、現行憲法が改正できなくなるからではなく、喧騒のなかでやると新憲法が変質してしまう危険があるからである。これもちゃんと読めば普通に理解できる話だ。


にもかかわらず、現行憲法を気付かれずに改正するとか、気付かれずに現行憲法の解釈を変えるといった意味で理解する人間がうじゃうじゃいる。そもそもそんなことは不可能である。現に安保法案に関しては連日マスコミで取り上げられているではないか。これも「麻生はバカだからそんなこともわからないのだ」という方向で理解しているのかもしれないが。


「静かに」とは

 そのときに喧々諤々(けんけんがくがく)、やりあった。30人いようと、40人いようと、極めて静かに対応してきた。自民党の 部会で怒鳴りあいもなく。『ちょっと待ってください、違うんじゃないですか』と言うと、『そうか』と。偉い人が『ちょっと待て』と。『しかし、君ね』と、 偉かったというべきか、元大臣が、30代の若い当選2回ぐらいの若い国会議員に、『そうか、そういう考え方もあるんだな』ということを聞けるところが、自民党のすごいところだなと。何回か参加してそう思いました。

 ぜひ、そういう中で作られた。ぜひ、今回の憲法の話も、私どもは狂騒の中、わーっとなったときの中でやってほしくない。

という意味の「静かに」である。当初の報道では発言の詳細が報道されてなかったから誤解するのも仕方のないところではあるが、詳細がわかってもまだ「静かに」を「気付かれないように」という意味で解釈する人間が知識人の中にもいるというのは、これまた情けなくて涙が出てくる。


そして

あの手口学んだらどうかね

とは、もちろん「ナチスの手口を見習え」という意味ではない。「ナチスの」とも「まねしろ」とも言ってない。ワイマール憲法が質的に変化してヒトラーが首相に指名されてナチスが権力を握ってしまった歴史を学んで、そうならないようにしようということである。



もちろん正しい解釈をしたところで、麻生氏が現行憲法の改正を肯定的に捉えていることに変わりはない。だから(歴史学者などでは圧倒的に多いと思われる)護憲派の人にとって麻生氏が敵であることに変わりはない。だからといって間違った解釈をほっといていいということには全くならないのである。それは史料解釈を生業としている人にとっては致命的な問題である。