相対的貧困とは

もうやめようと思ってたけど、あまりにも「相対的貧困」について理解していない人が多いので。それも「(いわゆる)貧困叩き」を批判する側でさえ理解してないので。


貧困線の基準は、2012年では「単身者では可処分所得が約122万円、2人世帯では約173万円、3人世帯では約211万円、4人世帯では約244万円に相当する」(ウィキペディア


2人世帯で173万の母子世帯の可処分所得は月当たりでは約14.4万円。調べたところでは最低でも月15万は必要と説明しているところが多いから、それよりも少ないが、切り詰めれば何とか生活していけるだろう。それを「食うや食わずの生活ではない」と言うことはできるかもしれない。しかしこの173万というのはこれより少ないと貧困という意味であり、相対的貧困の2人世帯の母子家庭がすべて173万で暮らしているわけではない。当たり前だ。


では「絶対的貧困」とは何かといえば、国際貧困ラインでは1日1.90ドル。366日695.4ドル。365日693.5ドルとは「1ドル=101.80円(今日の相場)」で換算して1年の所得が7万598円以下。これが絶対的貧困である。調べた限りでは日本における固有の「絶対的貧困」の定義は見当たらない。とすると、年収122万(単身の場合)以下7万以上が日本における絶対的貧困ではない相対的貧困ということになるのではないか?そもそも「食うや食わずの生活」を「絶対的貧困」だとすれば、ホームレスの人の中にだって食だけは足りているという人もいるだろう。だから「相対的貧困絶対的貧困とは違う。貧困者は貧困者らしく生活しなくてはいけないのか?」という主張が良く見られるけれども、この基準ではそう言っている人が想定しているだろう「貧困者らしい生活」でさえ絶対的貧困の定義には程遠いのではないか。


相対的貧困」は最低限の食事はできるけれども、それ以外の住宅や衣服等については足りていない人たちも含まれている。「相対的」だから多少の余裕があるというわけではない。その中で上位に属する人だけは、家計を切り詰めればささやかな趣味・娯楽に使う余裕があるというだけだ(あとは所得は低いけれど資産を持っている人)。


「貧困者は貧困者らしく生活しなくてはいけないのか?」みたいなことを言う人が想定している「相対的貧困」はどう考えても間違っている。「してはいけないのか?」ではなく「できない」のだ。


絶対不可能かと言えばそうではないかもしれない。たとえば食費を限界まで切り詰める。あるいは必要な食事まで我慢するとか、光熱費をほとんど使わないとか、服はボロボロになっても使い続けるとか。そういった努力をすれば、遊ぶ金を捻出することができるかもしれない。ところが「貧困者は貧困者らしく生活しなくてはいけないのか?」と主張している人は「貧乏人ほど浪費するのものだ」とも言うのだ。おかしいではないか?せめて「その他の生活費を計画的に切り詰めているから趣味・娯楽に使える金があるのだ」と主張すべきではないか。ただし、そんな切り詰めた生活をしている人が趣味・娯楽にあんな使い方をする(それも親ではなく子が)というのは、いたとしても相当なレアケースであろうと思うが。