「貧困叩き」を批判する人はなぜNHKを批判しないのだろうか?

<貧困>「貧乏人らしく」女子高生たたきの大誤解 (毎日新聞) - Yahoo!ニュース
⇒[大弦小弦]貧しさは時に罪なき子を叱り… | 大弦小弦 | 沖縄タイムス+プラス


次から次へとステレオタイプな主張が出てくる。彼らの言ってることは基本的に全く同じだ。


まず「1000円ランチ」。前にも書いたが彼女が食べたのは「1000円ランチ」などではない。そもそも彼女が食事をした「ワンピースレストラン BARATIE」は1000円ランチを出すような店ではない。
ワンピースレストラン BARATIE(バラティエ)


8月は約4千円。5月は母親と行ってると思われるから少なくとも倍はする。交通費も往復で約2千円する。「いつもの如く美味しかった」と書き込んでいるから、これ以外にも食事をしているのは間違いない。実際写真もネット上に出回っているが日付が確認できないので証拠としては保留しているけど。本当に彼女の消費実態をわかっているのか?少なくとも平均的な高校生よりも遥かに金を使っている。


そして、お決まりの片山さつき批判。お疲れさまです。


そんでもって、「支援を受けたいなら貧乏人らしくしろ」は傲慢だ(毎日新聞とくる。


もう何なんでしょうね?この定型的な文章。どこかに「定型文」があって、それに多少加えて発表しているんでしょうかね?貧困叩き批判するにしても、もう少し違った視点で語ることはできないんでしょうかね・


で、毎日新聞NPO法人ほっとプラス代表理事・藤田孝典)の記事。これに限ったことじゃないけど、今、目にしてるのがこれなんで引用させてもらう。

 ◇「支援を受けたいなら貧乏人らしくしろ」は傲慢だ

 ところが、今回の貧困バッシングでは、女子生徒の1000円ランチがたたかれました。「貧困であることをアピールし、支援を求める高校生がランチに1000円もかけるとは何事か」という偏狭な批判です。貧困なのだから映画を見てはいけない、アニメグッズをそろえてはいけない、と求める批判者は、支援されるべき貧困を「絶対的貧困」と考えています。そして、「貧しい者は貧しくしていろ」という懲罰的態度を無自覚に相手にぶつけています。

 「貧乏人は貧乏人らしく」という目線は、貧者を「劣った者」と見なし、隔離した16世紀英国の貧者隔離思想に近いものです。


「支援を受けたいなら貧乏人らしくしろ」は傲慢だ


しかし、よく考えてくださいよ。


(彼女が本当にそうなのか疑問はあるけど百歩譲ってそうだとして)
相対的貧困者を「貧乏人らしく」演出したのはNHKでしょう


「自宅のアパートには冷房はありません」「夏は保冷剤をタオルで包んで首の後ろに巻いて涼んでいる」「中学校のパソコンの授業についていけなくなったとき、キーボードの練習だけでもできるようにと母親が買ってくれました」「みんなパソコンが家にあるのが当たり前なんだなっていうのを思って・キーボードだけで申し訳ないけどっていうので・1000円ちょっとぐらいだったと思います」


まさに「貧乏人らしく」のオンパレードではないか


まあ、これらは事実なんでしょう。だが事実なんだからそれを報じて何が悪いのか?というのは詭弁である。


一方では豪華な食事をして、映画をいっぱい見て、ワンピースのフェス(入場料2000円)や東京ワンピースタワー(入場料3000円)で遊び、グッズを買い、アニメや映画のDVDやCDやゲームを買い、漫画を買い、と豪勢な消費生活もしている。


ところがそんんことは一切説明しなかった。映像を見れば確かにグッズやCDや漫画がいっぱいある。後になってみれば気づくけど、そんなのちょっとテレビで見ただけではわからない(そりゃ気づいた人もいるだろうけど)。

当事者の生活の一場面、言動の一部を切り取って論評し、あたかも完璧な貧困者でないと許さないかのような社会は、病んでいよう。(沖縄タイムス

NHKがやったことは「当事者の生活の一場面、言動の一部を切り取って」にまさに該当するではないか。


※ そもそも「かながわ子どもの貧困対策会議」は「当事者以外には見えにくい貧困の実相に対する理解を共有してもらおう」というものだった。NHKはそれを「見えやすい貧困」にしてしまったのだ。


NHKが相対的貧困は「貧困らしい貧困」とは違うけれど貧困であり援助が必要なのだという認識で報道したのならば、今問題になっている「貧困」とは何かを説明すべきでしょう。そして一方では衣食住に最低限に必要なもの以外にお金を使っている彼女をありのままに視聴者に伝え「それでも援助が必要なのです」と訴えれば良かったではないか。


NHKは「本件を貧困の典型例として取り上げたのではなく、」と片山議員に説明している。何なんですかこれは?NHKが相対的貧困について訴えようとするなら、(相対的貧困であのよな消費が可能ならば)彼女はまさにうってつけのモデルではないか。


そりゃもちろん、ありのままに伝えたら「こんなのは貧困じゃない。何でこんな人たちまで税金で援助しなくてはならないのだ」と言う人は確実に出てくるでしょう。それは当たり前のことで、日本ではまだ相対的貧困に対する理解が浸透していないのだだからこそ訴えなければならないのではないか


彼女のような事例を紹介することで議論を惹き起こし、啓発活動をする。日本はそういう段階ではないのか?


だとしたら、貧困叩き批判をする人はNHKを批判すべきである相対的貧困層を「貧困らしい貧困」として紹介し、実はそうではなかったことが発覚したことにより、相対的貧困についての人々の認識は大いに狂ってしまった。最初からありのままに紹介していれば、賛否両論があるにしても、もっとまともな議論ができるはずだった。


なぜ、それがわからないのだろうか?


(追記)
ステレオタイプの例に追加

女子生徒をたたく人たちは、「彼女は本当の貧困ではない。飢餓寸前になるまで助けるべきではない」と主張しているように見えます。

なぜか。いわゆる「1000円ランチ批判」から、いきなり「餓死寸前」の段階まで飛ぶ。このパターンも何度か見た。「餓死寸前」とはおそらく「絶対的貧困」のことだろう。こんな極端に奇妙な論理が別の場所で同時発生するというのは不自然。ネタでなくマジでテンプレがあるのかもしれないと思えてきてしまう。