報恩寺のマルコ・ポーロ像(その3)

日本民族文化史考』(白柳秀湖 1947)より

読者は日本にマルコ・ポーロの像があると聞いて恐らく眼を丸くして驚き且つ怪むだらう。盛岡の人で三つ割の報恩寺にマルコ・ポーロの像が忽必烈の像と並べて安置されて居ることを知らぬ人はあるまい。しかし、マルコ・ポーロの像と忽必烈の像とがどうして禅刹の五百羅漢の中に並べて祀られるかについて、まだ何人からも明快な説明を与へられたことのない盛岡人は、半信半疑の中に彷徨しこれを日本の持つ貴重な国際事物の一として大に一般に宣伝し、世界人の注意を喚起しようとするほどの勇気と確信とに裏づけられて居ぬのではないか。報恩寺の五百羅漢に対する盛岡人の態度が、上述の如く、極めて消極的である故もあらうが、盛岡以外の人は殆ど同寺に安置されて居るマルコ・ポーロの木像に関して知るものがない。吉田東伍博士の『大日本地名辞書』でさへ、三つ割に報恩寺のあることは書いてもマルコ・ポーロの木像に関しては、一言も言及して居ない。

ここからわかることは、
(1)昭和22(1947)年時点で既に盛岡においては有名だったこと
(2)盛岡以外ではほとんど知られていなかったこと
(3)なぜマルコ・ポーロの像が祀られているのか理由は不明だったこと(というのは白柳氏の言い分で、実際のことろはそもそもこれがマルコ・ポーロの像だという確かな根拠がなかったということだろう)


で、先に原田氏が2ちゃんねるにて俺の質問に

フビライマルコ・ポーロにこじつけたのは、
妖怪図鑑でおなじみ故・佐藤有文氏のようです。六郡誌大要にも、フビライマルコポーロが東北に来て云々という記述が
ありますが、これは『歴史読本』に掲載された佐藤氏のレポートを和田氏が元ネタに用いたために生じた、と
推察されます。

とレスしたことは最初に紹介したけれど、

佐藤 有文(さとう ありふみ、1939年 - 1999年)は、日本の怪奇作家・オカルト研究者。秋田県大館市出身。父親は作家の佐藤鉄章。
佐藤有文 - Wikipedia

なので、昭和22(1947)に佐藤有文氏は8歳ということになり、佐藤氏がこじつけたというのはあり得ないということになる。

※ なお俺は佐藤有文という人のことを全く知らない。名前すらこれ以外では聞いたことがない。と学会界隈では有名なようだが。

また、和田喜八郎氏は青森の人で、この件は盛岡人以外には知られていないとはいっても、青森なら少しは知られていたかもしれず、なおかつこの本にこう書かれているのだから、それ以降それなりに知名度が上がっただろうから、「佐藤氏のレポートを和田氏が元ネタに用いた」とは全然言い切れないように思われる。


(つづく)