『陰謀の日本中世史』について(その2)

具体的な話をする。といっても俺がそれなりに知ってるのは信長に関することだけだが。

公家の吉田兼見は、本能寺の変後に勅使として光秀と交渉したこと、明智光秀敗北後に日記を書き直して光秀との交渉に関する記述を抹消したことなどから疑われたが、(中略)また彼は当初から光秀の行動を「謀反」と日記に記述しており、自分を引き上げてくれた信長を殺した光秀に批判的だった。
(『陰謀の日本中世史』P219〜P220)

『兼見卿記』別本に「今度謀反之存分雑談也」と「謀反」と書いてあることについては俺は去年書いた。
『兼見卿記』の謎 - 国家鮟鱇

謀反は大罪であり、光秀が自ら「謀反」を起こしたと表現することはおよそ考えられず、これは兼見側の表現であろう。というのは単純な話だが意外と見落とされている。俺が去年書いたときに、一応ネットで検索したが、そういう指摘は見つけられなかったし、俺が今まで見た本にも書いてなかったと思う。もちろん本能寺関係・信長関係の書籍・論文・ネット記事は膨大にあり、俺が知らなかっただけの可能性は高い。とはいえ、これが十分に認知されていたかといえばそんなことは無かっただろう。ひょっとして呉座先生俺の記事見た?とか思っちゃうけど、さすがにそれはないだろう。


だが、『兼見卿記』別本に「謀反」と書いてあることは重要である。というのも、吉田兼見は日記に都合が悪いことが書いてあるので書き直したというのが一般的な見解だからだ。


「謀反」と書いてるなら、それは本当に都合の悪いことだったのか?という疑問が生じるではないか?(ちなみに「正本」ではこの部分削除されてる)


で、去年の記事にも書いたことだが、日記は当日に書くとは限らない。後日にまとめて書くこともある。とすれば「別本」も光秀敗北後に書かれた可能性がある。すなわち『兼見卿記』は光秀との関係が都合が悪いから書き直されたのではなくて別の理由で書き直された可能性がある


そして、これは去年の記事には書かなかったが、歴史学者の金子拓氏が「正本」と「別本」がある理由を、朝廷と光秀との親密な関係を隠すためではないと主張していることとも整合性がある。そもそも都合が悪ければ「別本」は処分されるべきもので、現在まで伝わってるのも不自然な話である。


『兼見卿記』別本に「謀反」と書いてあることの重要性に気付けば、少なくとも、都合が悪いから書き直したと確実にいえるほどの根拠は無いということになるのではないだろうか?なぜ、依然として(都合が悪いので)抹消した説にこだわるのだろうか。


(追記4/17 読みようによっては呉座氏は抹消したことを肯定しているのではないと読めないこともないが、それなら「抹消したことなどから疑われたが」ではなく「抹消した(と考えられた)ことなどから疑われたが」というように書くはず。

(つづく)