男谷精一郎の父親について(その8)
男谷精一郎文化7(1810)年出生説は孫の男谷忠友が書いたもの。精一郎は忠友が19歳の時に67歳で死去。寛政10(1798)年出生だと考えられる。なぜ祖父の年齢を12年も違う55歳にしてしまったのかは大いなる謎。
67歳だから6年前の安政5(1858年)戊午に61歳で還暦祝いもあったはず(忠友13歳)。精一郎の子には鐵太郎の他に萬次郎、金三郎、武四郎、章五郎がいるという。。「五男六女をつくった」(『勝海舟』勝部真長)ともある。ただし萬次郎・武四郎は早死、章五郎は不明(『幕末実説剣豪秘聞』)。とはいえ当時生存してた人もいるのではないかと思う。忠友にとって叔父・叔母にあたる彼らから話を聞かなかったのだろうか?
ところで男谷忠友が書いた『大日本人名辞書』男谷精一郎の記事に
元治元年七月某日病歿す深川增林寺に葬る
とあるが、
『東京掃苔録』(藤浪和子 昭15)「増林寺」に
元治元年七月十六日没。年六十七。
『江東区二十年史』(1967)「男谷精一郎の墓」に
享年67才であった
『東京名所図会 [第15] (深川区・深川公園之部)』(1969)「男谷燕斎墓・同精一郎墓」に
元治元甲子年七月十六日卒年六十七
と、増林寺の男谷精一郎墓に関する記事には没年67歳と正しく記されている。また孫の忠友は「七月某日」と書いているが、「七月十六日」と書かれている。増林寺が所有する情報だと思われる。
男谷精一郎は寛政10(1798)年出生というのが現在は主流(そして正しい)だと思われるが、以前は孫の忠友による文化7(1810)年出生としたものが多かった。文化7年説に疑問があることは『講武所 (東京市史 ; 外篇 第3)』1930)で既に指摘されていたことだが、以降も文化7年を採用するものがあった。それが寛政10年説に入れ替わったきっかけは何だったのか?それを探る手掛かりは全く見つからない。
ところで精一郎の生年を文化7年としてしまった男谷忠友だが、精一郎の父親は男谷忠之丞だとしている。だが精一郎の父を男谷信連だとするものが多く、現在でもそうなっている。勝小吉の『夢酔独言』に新太郎(精一郎)の親父は忠之丞だと書いてあるにも関わらず。これも不思議な話だ。
注目すべきは既に(その2)に引用したが平凡社の『大百科事典』
男谷忠之丞の長子。文化七年元旦に生る。男谷忠之丞の長子。二十歳の時小十人頭男谷彦四郎燕斎の養子となる。 (『大百科事典 第4巻 第1冊』 平凡社 昭11至14)
文化七年正月に生る。父は幕臣男谷信連(鳩斎)文政十二年従兄男谷彦四郎思孝(燕斎)の養子となる。 (『大百科事典 第三卷』平凡社 昭和18)
前者は男谷忠友説の「文化七年」と「男谷忠之丞」の両方を採用しているが、後者は「文化七年」を引き継ぎながら「幕臣男谷信連(鳩斎)」になっている。何かがあったのだろうが、それが何なのかはわからない。なお何度も書いてるが男谷信連は幕臣ではなく水戸藩士。
そしてもう一つは『大日本人名辞書』(経済雑誌社)。男谷忠友の記事が載るのはこれだが、精一郎養父男谷燕斎(彦四郎思孝)の記事も載る。
十一年六月十八日を以て病むて歿す壽六十四城東深川增林寺に葬る男なし嚮きに同族新次郞信連の男精一郞信友を養て子と爲す二女あり長は小納戶本目某に嫁す次は即ち信友の妻也(碑陰記)
ここには精一郎の父は新次郎信連だと書いてある。同じ本の同じページに(筆者は違うかもしれないが)そう書いてあるのだ。
そしたら男谷忠之丞と新次郎信連が同一人物だという誤解が生じるかもしれない。ただしそれにはもう一つの要素が付け加わっている。新次郎信連の号は「鳩斎」という。この「鳩斎」を男谷忠之丞の号とするものが複数ある。
男谷 忠之丞(鳩斉)
※なおここでの「忠之丞(鳩斉)」は米山検校銀一の子の男谷平蔵の子となっている。
本所番場町 忠之丞 鳩斎
新太郎は、その鳩斎、すなわち忠之丞の子として生れたのだが、本妻ではなくて妾腹になるものである。
(『日本の剣豪 4』「男谷精一郎 奈良本辰也 1985)
男谷忠之丞(鳩斎)の長男に生れ
(『統率の原理と心術 (啓正社選書) 』勝部真長 1983
このように「忠之丞=鳩斎」という誤解があったことがわかる。ただしこれらの記述に「新次郎信連」という名前は出てこない。すなわちこの「忠之丞=鳩斎」に「鳩斎=新次郎信連」という(正しい)情報が繋がって「男谷精一郎の父は男谷新次郎信連」という説が成立したのではないかと推測する。
なお、ここにはもう一つ重要な要素があると思われる。『海舟全集 第10巻 琉芳遺墨其他』(改造社 昭和4)所収「越後國小谷郷男谷家略系」に
〇初代検校(廉操院)
〇旭斎
〇男谷下総守
海舟全集 第10巻 琉芳遺墨其他 - 国立国会図書館デジタルコレクション
とある。米山検校の子が「旭斎」で、その子が男谷下総守(精一郎)としてある。おそらく「鳩斎」の間違いだろう。『幕末実説剣豪秘聞』(流泉小史 昭和5)に
或は旭と鳩とを校正子が誤つたものかも知れぬ。
と指摘する。ただし結局のところ流泉小史作成の系図も
◎(初代)検校(廉操院)
◎(二代)旭斎(長)
◎(三代)男谷下総守(絶)
となっている。
この「旭斎」は後々まで影響を与えてしまった。海音寺潮五郎の『勝海舟』には
初代検校
忠之丞(旭斎)
精一郎(従弟彦四郎の養子となる)
という系図を載せるが、これは『海舟全集』の系図を元にしたものだろう。『海舟全集』『勝海舟(海音寺潮五郎)」は精一郎を初代検校の孫としているが、前掲『墨田区史 前史』では新太郎(精一郎)は曾孫で「忠之丞 鳩斎」の父を「旭斎」としている。同じく前掲の『日本の剣豪 4』「男谷精一郎 奈良本辰也 1985)も
平蔵の兄に旭斎というのがあった。それが、検校の直系として別に一家を構え、その子として生まれたのが忠之丞である。これは本所の馬場町に住み、鳩斎と言っていた。
また『夢酔独言 : 勝小吉自伝 (角川文庫) 』(1974)にも
男谷検校の系統に旭斎と名のったのがあり、その子に本所番場町に家のあった忠之丞鳩斎が
とある模様。
つまり男谷検校の子「鳩斎」を「旭斎」と誤ってしまったために、「鳩斎」が浮いてしまい本当の「鳩斎(=男谷新次郎信連)」が「旭斎」に、その子の忠之丞が「鳩斎」ということになってしまったのではないかと推測するのである。
(つづく)