陰謀論批判批判3

明智憲三郎氏の説を俺は支持しない。だからといって明智氏を気軽に叩けるかといえばそうではない。なぜなら歴史学会と明智氏とどっちが俺と近いところにいるかといえば、断然明智氏の方が近いから。素人の歴史好きと一口に言ってもいろいろな種類があるのだろう。歴史学者の書いた本を読んで疑問を持つことなく受け入れて知識を増やすことだけが楽しみの人もいるのだろう。けれど俺はそういう人間ではない。


それにしても明智氏の説は度が過ぎているので叩かれるのは当然だと考える人もいるかもしれない。もちろん問題点は指摘されてしかるべきではある。ただし、素人だからという点で叩いているものも多い。その手の批判は俺にもあてはまるので他人事には見えない。


繰り返すが俺は明智氏の説を支持しない。正しい可能性は非常に低いと思う。数値にするのは困難だが仮に正しい確率は1万分の1だとしよう。この説が正しいということはおよそ有り得ないということだ。ただし、およそ有り得ないという中にも程度がある。「本能寺の変の黒幕は宇宙人だった」という説があったとすれば、明智氏の説はそれよりも何万倍もまともな説だということはできる。可能性という問題をどう考えるべきか?1万分の1(0.01%)どころか100分の1(1%)でも可能性が低いと言えるし、10%でも可能性が低いと言える。下手すればそれ以上だって可能性が低いと言えたりする。実のところ「可能性が低い」の範囲は幅広い。一口に可能性が低いといってもピンからキリまである。


そして可能性が低いものは間違ってるとは必ずしも言えない。というか可能性が低いことを理由に切り捨てていけばいつか必ず間違うだろう。とはいえ逆に何でもありだときりがない。どの程度まで許容すべきかは難しい問題であり決着がつくとも思えない。だが「黒幕は宇宙人」的なものはさすがに切り捨てても良いだろうというのは大方が納得するところではあろう。そこまでではないものはいわゆる「グレーゾーン」に属するものだ。


ましてや本能寺の変の真相についてはこれでほぼ疑いないというような決定的なものはない。基本的には「わからない」問題である。今後新史料が発見されて解明される可能性は非常に低いだろうと思われ、ましてやそんなものが無い現状ではわかりようが無い。数々の説が出されているけれども、どれもこれも有力な証拠を欠いた推測にすぎない。わかりようが無いものを研究することは無意味だという考え方に立てば、そもそも明智氏説のみでなく全ての説が無価値である。個別の説ではなく研究すること自体を批判すべきだろう。


わかりようが無くても可能性を探るべきだという立場であれば、あらゆる可能性を尊重すべきではないか?物理的にありえないとか、明らかな誤解などは排除しても良いかもしれないけれど、かくかくしかじかの行動は合理的ではないというようなものは、人はえてして非合理な思考や非合理な行動を取るものであるから、それだけで否定できるものではない。俺が思うに排除して良いのは、物理的にありえないレベルのものか、明らかな誤読・誤解に基づくものである。ただし誤解・誤読だとして切り捨てるのにも余程の慎重さが必要である。


『陰謀の日本中世史』を読む限りでは、明智氏の誤解・誤読は『本城惣右衛門覚書』のみである。これは確かに「信長が家康を討つことは戦国の常識」という根拠にはならない。単に京都へ向かう目的が信長を討つことだというのは想定外なので、では誰を討つのか?と考えた時の結論が家康討ちだったというに過ぎない。だがこれだけで明智氏説が崩壊するわけではない。そしてそれ以外の批判は「合理的ではない」という話ばかりある。合理的ではないというのなら、そもそも信長を討つこと自体が普通に考えれば合理的ではない。合理的ではないという理由で否定できるのなら、

佐久間信盛林秀貞ら老臣が相次いで追放されたことを考慮すると、織田信長の信任を失った光秀も用済みとして粛清されても不思議はなかったのである。

などということも決して言うほど合理的ではない。粛清されると決まってた証拠は無いし、万一粛清されるとわかってたとしても、それが本能寺の変に必ず結びつくかといえばそんなこともなく(人質が殺されるかもしれないとしても)逃げるとか他の方法も十分あるのではないか?そもそも、合理的でないという理由を重視するなら、もし本能寺の変の同時代史料が乏しかったら明智光秀が信長を討ったということすら、後世の捏造とされかねないのではないか?


何度でも繰り返すが俺は明智氏説を支持しない。支持しないけれども、だからといってここまで叩く必要を感じない。その手の批判は他説にもいわゆるブーメランとして突き刺さるだろう


明智憲三郎氏に問題があるとすれば、『本能寺の変431年目の真実』という本のタイトルにあるように、自説を「真実」とすることだろう。ただし「まえがき」をみると

捜査内容(証拠と推理)の妥当性を湖心坦懐に評価していただければ「あり得る!」「正論!」とご理解いただけます。

とあり、トンデモ本にありがちの大仰なものは感じられない。あくまで「あり得る」であり、「正論」というのも「これが真実だ」という意味ではないだろう。タイトルなど商業的な都合で付けられるものだ。


あと「真実」と書いてあったら「真実だ」と信じてしまう人がいたら、歴史云々とか以前の問題で、詐欺被害に遭う可能性が非常に高いのでまずそこから教育すべきだろう。