「大東亜戦争」という表現はいつから「失言」になったのか?

asahi.com:麻生首相、「大東亜戦争」と表現 戦争観問われ - 政治

 「大東亜戦争」は当時の政府が決めた正式呼称だが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が公文書での使用を禁止。教科書では「太平洋戦争」「第2次世界大戦」の呼び名が一般的になっている。

教科書的に言えばそうなるのかもしれない。だが現実はどうだったのか?


単一民族」と同様に
国会会議録検索システム
で「大東亜戦争」を検索。検索件数1193件。本会議に絞ると153件。


これを見ると、ある時期を境にして大東亜戦争」という表現が問題視され始めたことがわかる。


ある時期とは、昭和57年12月

大東亜戦争という名称自体、戦犯東條内閣が真珠湾攻撃の四日後に、日本を盟主とする大東亜新秩序建設を目的とする戦争という意味で命名したものであります。

  • 昭和57年12月10日 下田京子(共産)

あなたは、拓殖大学総長就任の際、講演で「われわれが東南アジア諸国に行くと、民衆はわれわれに大東亜戦争のおかげで独立できたとお世辞を言ってくれる。しかし、政治家の方は、うっかりそんなことを言うと日本からの賠償金を減らされるから言わない」などと得意げに話されております。

総理は、同じ集会での発言で、太平洋戦争に関し、日本の戦争責任を覆い隠し、日本を被害国、不運に遭遇した国だと強調しております。すなわち、日本が大東亜戦争という大きな災難に遭い、敗戦の屈辱を迎えたと述べているのであります。また同時に、大東亜戦争によって植民地は全部解放され、インドネシアも独立したことを強調しているのであります。

私は、六十年十月二十九日の衆議院予算委員会における答弁におきまして、「私は、いわゆる太平洋戦争、大東亜戦争とも言っておりますが、これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。

私は、いわゆる太平洋戦争、大東亜戦争とも言っておりますが、これはやるべからざる戦争であり間違った戦争である、そういうことを申しております。また、中国に対しては侵略の事実もあったということも言うております。これは変わっておりません。

まだ、極東裁判やあるいは太平洋戦争、いわゆる大東亜戦争の御質問でございますが、我々は長い歴史に耐え、しかも国際的通念に合った判断をしていく必要があると思います。


中曾根康弘氏が第71代内閣総理大臣に就任したのが昭和57年11月27日。この時を境にして、「タカ派」の首相を攻撃するために「大東亜戦争」という表現が問題視されることになったのだと俺は思う。

「大東亜戦争」という表現はいつから「失言」になったのか?(補足)

昭和40年から昭和57年の、衆参本会議での「大東亜戦争」発言を参考までに。
※ 所属政党名は自分で調べたので間違いがあるかも
※ 他人の発言の引用は略した。



昭和40年11月10日 山田長司(社会)
おりしも大東亜戦争の末期でございまして、食糧事情が非常に逼迫してきたときに、


昭和40年11月10日 片島港(社会)
大東亜戦争が終わり、昭和二十二年、旧外国人登録令によって、


昭和40年12月10日 野上元(社会)
昭和十六年十二月八日、すなわち日本が大東亜戦争に突入した日でありますが、


昭和40年12月10日 永岡光治(社会)
十二月八日は、大東亜戦争の宣戦の布告があった日だ、つまり、日本を破滅に導いた、


昭和40年12月21日 福田赳夫国務大臣
この支那事変、また大東亜戦争と、日本経済がインフレ化をいたしておるのでありまして、


昭和40年12月28日 野間千代三(社会)
あたかも日中戦争から大東亜戦争にかけての膨張に膨張を続けてきた軍事費に


昭和41年03月05日 大原亨(社会)
かつての大東亜戦争の未帰還機にひとしいような赤字公債が、


昭和41年04月15日 辻寛一(自民)
大東亜戦争を憎むのあまり、日清、日露の両戦役すらまるで日本の侵略戦争であったごとく


昭和41年05月14日 門司亮(民社)
この沖縄は、あの大東亜戦争中において軍靴にじゅうりんせられて、


昭和42年03月29日 三宅正一(社会)
自来大東亜戦争敗戦に至るまでの十年間は、


昭和42年08月06日 阿部助哉(社会)
ついに大東亜戦争、敗戦という悲劇になりましたことは、


昭和44年05月30日 楢崎弥之助(社会)
遂に軍部の政治支配、大東亜戦争突入、敗戦、無条件降伏と発展して行ったことは、


昭和44年07月23日 山崎昇(社会)
(略)


昭和44年07月31日 山本伊三郎(社会)
当時は、御存じのように、シナ事変が起こり、大東亜戦争に日本が突入しようという、


昭和45年05月08日 中曽根康弘国務大臣
大東亜戦争の先訓をかみしめよというお話でございますが、


昭和46年11月24日 門司亮(民社)
沖繩が二十六年の間、いな、大東亜戦争において、わが国最大の犠牲となった今日、


昭和47年02月01日 佐藤榮作国務大臣
そうして、過ぐる大東亜戦争は、申すまでもなく、日華、日支の関係、その戦争が基本であります。


昭和47年03月07日 船田中(議長)
(略)


昭和48年12月01日 秋田大助(副議長)
(略)


昭和52年05月27日
(略)


昭和52年07月30日 新谷寅三郎(自民)
その後、昭和二十年、大東亜戦争の敗戦がいよいよ決定的となった情勢下で


昭和53年09月30日 目黒今朝次郎(自民)
一連の反動的な発言が行われていますが、いまだに大東亜戦争の戦後処理が十分でない。


昭和55年05月13日 勝間田清一(社会)
また私自身も、第二次大戦、大東亜戦争の起こる当時の風潮を思い出して、


昭和56年04月10日 長谷川峻(自民)
夜、尾道のホームに立ったら、すでに灯火管制でした。大東亜戦争です。


昭和57年12月08日 飛鳥田一雄(社会)
くしくも、きょう十二月八日は、大東亜戦争勃発のときであります。

昔は問題視されていなかったのにある時期を境に問題視されるようになるという話

⇒文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ『昭和を騒がせた漢字たち』 円満字二郎 (吉川弘文館)
昨日の書評ブログの記事にこんなのがあった。

 1950年が節目になるのは、この頃から当用漢字が普及しはじめたことが関係している。福井県庁の掲示板が「福丼県庁」になっていたり、朝日新聞毎日新聞の題字の「新」の横棒が一本多かったり、小学校のブロンズ像の台座の文字の人偏の縦棒が突き抜けていたりといったことが新聞沙汰や裁判沙汰になったりすることは、それ以前にはなかった現象だ。

 新聞題字問題は林達夫がちょっとした皮肉として書いたものだったが、林の意図を越えて大真面目に受けとられ、長期間新聞の投書欄を賑わすことになった。

 当時、新聞協会に加盟していた33紙のうち、27紙の題字が一本多い「新」だったそうだが、その多くは戦前からつづいていた新聞だろう。何十年も前から掲げられていた題字がなぜ急に問題にされるようになったのか。

面白いですね。

軍歌だよ全員集合

昔は問題視されていなかったと思うのに、今では問題視されるようになるという話といえば、去年だったか一昨年だったか記憶が定かでないんだけれど、テレビを見ていたら軍歌が流れたんですよ。どんな番組で、どんな内容で、どの軍歌だったか、録音が流れたのか、誰かが歌ったのか、すっかり忘れちゃったんだけれど、印象に残っているのは、同時に見ていた2ちゃんねるの反応。そりゃ大騒ぎでした。「軍歌キター」とか「おいおい、いいのかよ」とか「放送事故?」みたいな反応。


そこに俺は世代間ギャップを感じましたね。だって、俺が子供の頃はテレビで軍歌が流れるのってそんな珍しいものじゃなかったから(実は2ちゃんねらーの年齢層は高いはずなんですけどね)。


特に記憶が残っているのはドリフターズの軍歌ですね。「月月火水木金金」とか俺が知っているのはドリフのおかげ。学校で流行ってました。
月月火水木金金(ウィキペディア


「右傾化」著しい現在とは違い、70年代といえば左翼が元気な時代でしょう。問題にならなかったのかなと思います。まあドリフは教育上よろしくないということでPTAの評判は悪かったわけだけれど、右翼とか軍国主義だということで批判されたというのは知らないですね(俺が知らないだけかもしれないけれど)


ちなみに『軍歌だよ全員集合』。今月発売だそうです。

軍歌だよ全員集合(紙ジャケット仕様)

軍歌だよ全員集合(紙ジャケット仕様)


そういえばニコニコ動画で人気のアイドルマスターで、アイドルが幼稚園児のコスプレしてるってんで話題になっているんだけれど、これもドリフの番組では定番でしたよね。