家康の改姓

「源氏」と将軍? - Living, Loving, Thinking


家康の出自や改姓について語られているケースは、頻繁に目にするんだけれど、どれが定説になっているのか、未だに俺にはわからない。

本姓は当初藤原氏、次いで源氏と名乗った[1]。家系は三河国の国人土豪松平氏。永禄9年12月29日に勅許を得て徳川氏に改姓。通称は次郎三郎。幼名は竹千代。

1.^ ただし、これは自分の血筋をよりよく見せるための自称であり、実際には加茂氏、在原氏との説もあるが定かでない。

徳川家康 - Wikipedia

なんてことがウィキペディアに書いてあり、これを読めば、どう見たって家康は藤原氏から源氏に改姓したとしか理解できないけれど、実際は永禄9年に、徳川に改姓する以前から源氏を称していたのである。


徳川に改姓する際に、源氏から藤原氏になったのだ。これは従五位下三河守に叙任された時のことであり、源氏での叙任に朝廷が難色を示したからで、この時に新田源氏の得川氏世良田氏支族)が源氏から藤原氏になったという先例が「発見」されて、目出度く官位を得たというわけ。じゃあ、この時から新田氏の子孫を称するようになったのかといえば、そうではなく、祖父の代には既に世良田氏を称していたらしい。この件で奔走したのが近衛前久


というのが俺の知るところなんだけれど、
世良田氏 - Wikipedia

清康の孫の松平家康は初め藤原氏の子孫と称していたが、三河国統一を完成させると再び祖父の世良田氏=新田源氏末裔の主張を行うようになった。1566年に朝廷に働きかけて首尾よく得川義季の末裔であるとの勅許を受けるが、源姓ではなく藤原姓の徳川氏としてしか認められることが出来なかったので、以後も藤原姓を名乗ったという。

とあって、ここでも、それ以前から藤原氏を称していたように読める…



で、藤原氏から源氏への改姓(復姓)なんだけれど、近衛前久の文書には、「将軍望みにつきての事」と書いてある。このときに吉良氏の系図を借りたという。しかし、話はややこしいんだけれど、それ以前から家康は源氏を称していた(公式には藤原氏のはずなんだけれど、源氏にこだわりがあった?)みたい。

近年の研究(笠谷和比古、煎本増夫ら)によると、家康が本姓を源氏だと公称したのはこれよりはるか前の天正16年(1588年)であるという。後陽成天皇聚楽第行幸に際して提出した誓紙に家康が「大納言源家康」と署名しているためである。

徳川家康 - Wikipedia


(家康文書では天正16年ということなんだろうけれど、天正11年の信長一周忌で近衛前久が「徳川三河守源家康」と記しているという情報あり)


微妙に異なることが書いてあるのもいっぱいあるし、何がなんだかわからない。そもそも定説が存在するのか?定説が存在しなくて複数の説が存在するのなら、主な説にはどんなものがあって、どこが争点になっているのか等、不明な点が多すぎ。


流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯 (中公新書)

流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯 (中公新書)

最近の

(1)現在にいちばん近い過去。少し前から今までの間。ちょっと前。ちかごろ。副詞的にも用いる。

さいきん【最近】の意味 国語辞典 - goo辞書


辞書的には「最近」とはこういう意味。しかし期間が定まっているわけではないので、「最近」がいつのことなのかは、それだけでは判断が難しい。周辺の情報と合わせて予想が付く程度。


血天井の「血痕」は人間の血液であることが科学的に証明されている
で引用した正伝寺のパンフレットの

最近血液学の権威として知られている古畑種基博士の研究により、368年以前の人間の血液であると科学的に証明されました。

の「最近」は古畑博士が1975年に亡くなっているので、少なくとも30年以上前の出来事。晩年のこととは限らないので半世紀以上前のことかもしれない。そんな昔のことを「最近」というなんて、さすが「先の戦争」が応仁の乱である土地柄。なんてことじゃなく、単に昔のパンフレットが書き換えられずにいるだけってことだろうとは思う。


ただ、実際に「最近の研究」「最近の学説」が調べてみたら何十年も前のことだったなんてことは良くある。あれは何なんでしょうね。深く考えずに書いている場合(古い本に「最近」と書いてあって、そのままコピーしたとか)もあるんだろうけれど、「最近の」と書きたくなる心理が「何か」によって惹き起こされる場合もあるんじゃないかとも思う。

上から目線

「上から目線」とは何か(kikulog)


日本語の使い方としておかしいとかいうのは、この際どうでもいいです。俺の理解する「上から目線」というのは、要するに「高い位置からの物言い」ってことです。


で、これは一般的かどうかは知らないけれど、俺はフレンドリーな物言いも「上から目線」だと感じます。お前はアメリカ人かよって思います。フレンドリーな物言いを「上から目線」と言うのは変ですけど、俺の中では、親しくもない人間に対してフレンドリーな物言いをするのは、本来あるべき位置よりも高いということで「上から」って感覚になってます。


そんなことは、言論の中身とは関係ないって話になるんでしょうけれど、マナーはあって然るべきでしょう。もちろん時と場合によりけりで、2ちゃんねるでやけに丁寧な物言いしても浮いてしまうだけですけどね(といっても2ちゃんねるの中でさえ「上から目線」だと感じることは良くあるわけで単なる言葉遣いの問題というわけでもない)。


で、菊池さんの記事を見ると、「上から目線」というのは、間違いを指摘した相手を批判する言葉としてあるように見えるんだけれど、俺はそういう時だけでなく、同意される時にだって「上から目線」を感じることは一杯あるんですね。お前何様なんだよって。


まあ「上から目線」とは何かということを説明するのは難しいですね。具体例を示せば、それのどこが「上から目線」なのかって言うことはできると思うんですけど、それって色々と面倒だし。いくらこの人だけを批判しているわけじゃないって言ったところで、そう簡単に割り切れるものでもなし。無茶苦茶膨大なエネルギーを必要とするであろうことが容易に想像が付く。


というわけで、心の中で「こいつ上から目線だよなあ」って思ってても、なるべく言わない方が無難だとは思う。「上から目線」の人に、「上から目線」だって言っても納得するとは到底思えないし。


でも、自分がそうならないように気をつけるというのは、とっても良い事だと思いますよ。

「間違っていること」を信じる権利

某ブログで仕入れた情報で、某ブログのコメント欄で、いざこざがあったということを知った。まあよくある話。


いざこざの原因は俺にはどうでもいい話。間違いを指摘したら、間違いではないと反論され、再反論したら、コメントが承認されなくなって、論点のすりかえや印象操作をされた云々。


自分が間違えているということを理解した上で、意地になってそういう態度を取っているとしたなら、これはひどい話。だけど、自分が間違っていないと信じているのなら、それが「ID理論」だろうが「911陰謀論」だろうが何だろうが、そうとは言えないでしょう。間違いを指摘した側も、相手が本心から間違いを認めていないのに、表面的に認めたからメデタシ、メデタシって、それじゃ何のために間違いを指摘したんだって話。


「論点のすりかえ」と言うけれど、それはこっち側から見たらそう見えるかもしれないけれど、向こうにとってはそうではない可能性もある。両者の距離が一向に縮まらないのにしつこく相手の土俵で批判していたら、嫌がらせと受け取られることだってある。


そんな時どうする?どうするも何も、全ては相手が間違いを認めるかどうかにかかっているんであって、こっち側ではどうしようもない話でしょう。それを相手が理解しないのは、相手に悪意があるからだと解釈し、自分はその悪意の被害者だみたいな主張を始めたら、その証拠が十分にあるなら別だけれど、俺はそれがどんなトンデモ理論であろうとも、相手の方に肩入れしたくなってしまう。


(もちろんトンデモ理論はトンデモ理論として批判しなければならないけれど)