福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その3)

福沢諭吉曰く

 扨、この立國立政府の公道を行はんとするに當り、平時に在ては差したる艱難もなしと雖も、時勢の變遷に從て國の盛衰なきを得ず。其衰勢に及んでは、迚も自家の地歩を維持するに足らず、廢滅の數、既に明なりと雖も、尚ほ萬一の僥倖を期して窟することを爲さず、實際に力尽きて然る後に斃るるは、是亦人情の然らしむる所にして、其趣を喩へて云へば、父母の大病に囘復の望なしとは知りながらも、實際の臨終に至るまで、醫薬の手當を怠らざるが如し。是れも哲學流にて云へば、等しく死する病人なれば、望なき囘復を謀るが爲め、徒に病苦を長くするよりも、モルヒネなど與へて、臨終を安樂にするこそ智なるが如くなれども、子と爲りて考ふれば、億萬中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすが如きは情に於て忍びざる所なり。


内田先生曰く

けれども、国勢が衰え、中央政府のハードパワーが低下し、国民的統合が崩れかけたようなときには、「国家なんか所詮は私的幻想ですから」というような「正しいシニスム」は許されない。
そういうときは、「間違った痩我慢」が要求される。

福沢は「是亦人情の然らしむる所にして」と書いている。どこにも「要求される」などとは書いていない。


これを「要求される」と解釈するならば、内田先生も引用している部分の、「父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当を怠らざるがごとし。」もまた「要求され」て行ったということになる。


そんな馬鹿な。


もちろん、そんなわけはなくて、ここは内田先生が省略しているけれども、
「子と爲りて考ふれば、億萬中の一を僥倖しても、故らに父母の死を促がすが如きは情に於て忍びざる所なり」
と書いている。


福沢は決してそれを「間違った痩我慢」などとは言っていない。勝手に付け加えるなって話だ。


ここもまた「哲學流にて云へば」だ。哲学流に言えば父母はもう助かる見込みがないのだから安楽死させるほうが賢いってことだ。哲学が絶対に正しいというのなら「間違った痩我慢」と言えるだろう。だが、福沢はそんなことは言っていない。福沢じゃなくても普通そうだろう。


(つづく)

内田樹先生の利用法

内田樹が面白い情報を提供したときは疑え。十中八九間違っている」というのが俺のポリシー。
ということは前に書いた。
患者様 - 国家鮟鱇


さて内田樹先生の最新エントリー。
公共性と痩我慢について (内田樹の研究室)


福沢諭吉の『痩我慢の説』が紹介されている。なかなか面白そうだ。


ということは、疑うべきだということだ。


検索すると全文掲載しているところがあった。
痩我慢の説(言葉 言葉 言葉)


「やっぱりね」って感じ(それについては後ほど書くかもしれない)(書かないかもしれない)。


しかし、まあ、こうやって俺は『痩我慢の説』を読むことができたってことだ。ってことは、それなりに役に立ったってことだ。

福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その1)

福沢諭吉『痩我慢の説』のテキストはここ。
痩我慢の説(言葉 言葉 言葉)


まず言っておくけれど、俺は福沢諭吉が『痩我慢の説』で主張していることを全面的に同意しているのかといえば、そういうわけではない(現状ではそうだけれど、もっと読み込んで考えてみる必要はあるかもしれないとは思う)。


しかし、同意するにしろ、しないにしろ、福沢諭吉が何を主張しているのかを理解しなければ話にならない。もちろんその際に恣意的な解釈してはならず、ありのままの理解をするように勤めなければならない。


以下検証。

立國は私なり、公に非ざるなり。

人間の私情に生じたること

これはそのまま受け取れるだろう。しかし、重要なのはその次だ。

 故に、忠君愛國の文字は、哲學流に解すれば、純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情に於ては、之を稱して美徳と云はざるを得ず。

忠君愛国は哲学的な解釈では「私情」ということになるけれど、「今日までの世界の事情においては」これを「美徳」と言わざるをえない。


さて、ここのところを内田樹先生はどう解説しているか?
公共性と痩我慢について (内田樹の研究室)

立国立政府はカテゴリカルにはローカルでプライヴェートなことがらであるが、「当今の世界の事相」を鑑(かんが)みるに、これをあたかも「公」であるかに偽称せざるを得ない、と。

「今日までの世界の事情においては」と書いてあるのに、「当今の世界の事相」と書いている。前者は「昔から今に至るまで」という意味だが後者は「このごろ」というう意味だ、両者は大違いだ。


いやらしい。


そもそも「当今の世界の事相」という字句が元テキストに見つからない。

都て是れ人間の私情に生じたることにして、天然の公道に非ずと雖も、開闢以來今日に至るまで、世界中の事相を觀るに、各種の人民相分れて一群を成し、

とはあるけれど。


もちろん「偽称」なんてことも書いてない。「偽称」などという言い方は「哲学」を絶対視したときに生じるものだ。福沢は「哲學流に解すれば」と書いているのみだ。


この時点でもうお腹いっぱいって感じ。


講談社のテキストはこれと違うものなのだろうか?その可能性は低いと思うけど)


(つづく)

福沢諭吉は『痩我慢の説』で何と言っているのか(その2)

福沢諭吉曰く

扨、この立國立政府の公道を行はんとするに當り、平時に在ては差したる艱難もなしと雖も、時勢の變遷に從て國の盛衰なきを得ず。


内田樹先生曰く

別に国運が隆盛で、平和と繁栄を豊かに享受しているようなときには、そんなことを考える必要はない。


「立國立政府の公道」とは「忠君愛国」のこと。「忠君愛国」というと現代人にとってはものものしい印象があるが、

即ち國を立て又政府を設る所以にして、既に一國の名を成すときは、人民はますます之に固着して自他の分を明にし、他國他政府に對しては、恰も痛痒相感ぜざるが如くなるのみならず、陰陽表裏、共に自家の利益榮譽を主張して、殆んど至らざる所なく、其これを主張することいよいよ盛なる者に附するに、忠君愛國等の名を以てして、國民最上の美徳と稱するこそ不思議なれ。

という意味である。現代風に言えば「国民意識」「共同体意識」みたいな感じ。


で、福沢は「そんなことを考える必要はない」なんてことは一言もいってない。というか、必要が有るとか無いとかいう話ではない。人民はそういう意識を持っているという話だ。


福沢が言っているのは、「そういう意識を持っていても平時にはさしたる艱難はない」ということですよね。


もちろん、以上を鑑みれば、

けれども、国勢が衰え、中央政府のハードパワーが低下し、国民的統合が崩れかけたようなときには、「国家なんか所詮は私的幻想ですから」というような「正しいシニスム」は許されない。

なんてことも言うはずがない。内田氏がいう「正しいシニスム」は「哲學流」の考え方であり、人民がそれを持っているなんて話じゃないのだ。


先生はなっちか?


(つづく)