「許す」と「赦す」

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-
という記事があって、それに対して
「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き
という批判があるのだが
はてなブックマーク - 「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き
これが評判が悪い。


さて、元記事で槍玉に上がっているのは読売新聞の記事で、「すべては許される」と訳されている。しかしこれは読売に限ったことではなくて、
Yahoo!ニュース - 銃撃された仏紙、最新号表紙にムハンマド風刺画 (AFP=時事)
Yahoo!ニュース - 仏紙銃撃テロ ムハンマドが「私はシャルリー」…仏週刊紙、事件後も風刺画掲載へ (産経新聞)
Yahoo!ニュース - シャルリー「生存者の号」発行へ ムハンマド風刺画特集 (朝日新聞デジタル)
Yahoo!ニュース - 特別号、表紙はムハンマド=25カ国で300万部発行―仏週刊紙 (時事通信)
銃撃テロ 襲撃された新聞社が事件後初めて発行する表紙を発表(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース
Yahoo!ニュース - 仏紙「シャルリー・エブド」次号は300万部−表紙にムハンマド (Bloomberg)
Yahoo!ニュース - 風刺か侮辱か シャルリー紙最新号の表紙にイスラム預言者 (CNN.co.jp)
Yahoo!ニュース - <仏連続テロ>「表現の自由、制限ない」風刺画家が会見 (毎日新聞)


全て「許される」である


さて、ここで思うのは新聞社の特殊事情だ。新聞は基本的に常用漢字を使うことになっている。で、調べてみたところ「赦」は常用漢字だ。


しかし、新聞社のルールは、おそらくそれだけではないだろう。同じような意味を持つものがある場合、どっちかに統一するというのもあるかもしれない。


というわけで、「許す」「赦す」に関してネットで調べてみると、
「赦し」であって「許し」ではない | 山形牧師の部屋
という記事がみつかった。去年の7月に朝日新聞ノートルダム清心学園理事の渡辺和子氏にインタビューしたときの記事の見出しが「許す心のゆとりが大切」だった。


それに対して、この牧師さんが朝日新聞に問いあわせたところ、「朝日新聞社・用語とりきめ」というものがあり、中学生レベルでも読めるようにという配慮から、赦すではなく許すを使っているという回答があったそうだ。


この牧師さんはこれに納得していないようであり、またそう思う人も多いのではないかと思うけれど、とにかくそういう事情がある、つまり無知だからそうしているわけではないということだけは理解しておいたほうがいいでしょうね。


で、元に戻って
「許す」と「赦す」は同じ意味ですよ - 図書館発、キュレーション行き
の指摘はいちゃもんでもなんでもない正当な指摘だと俺は思うんですけどね。 pardonnéとpermisの意味は違う。だとしてもどっちも日本語では「ゆるす」であり「許す」と表記して間違いではないんだから。

そして元記事がこれだけの根拠で読売新聞の記者が「自分が読みたいことを読んだ」と批判めいたことを主張するのは不当だと思いますね。

「最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる。」

「許可」という語句はどこにも使ってないし、読売記事から「自分が読みたいことを読んだ」のは関口涼子さんの方ではないでしょうかね?


ところで、英語では「All is forgiven」と訳されている。「forgive」の意味は

〈人・罪などを〉許す,大目に見る 《★【類語】 forgive は人の罪や過失を腹立ち・処罰などの感情を捨てて許す; pardon は罪や悪事に対して処罰を免除する; excuse はあまり重大ではない失敗や間違いなどを許す》.

forgive の意味とは - 英和辞典 Weblio辞書
だそうだ。


「pardonné」から派生した「pardon」じゃなくて「forgiven」なんですよね。いや俺は語学得意じゃないんで、だからどうしたということは解説できないんだけれど、一応書いとく。

ムハンマドの肖像画

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題 / 関口涼子 / 翻訳家、作家 | SYNODOS -シノドス-

この記事には他にも言っておきたいことがある。

この記事には多くの事実誤認が見られる。政治学者の池内恵氏によると、緑はムハンマドのターバンの色ではなく、そもそもシャルリー誌の表紙絵の男性も緑のターバンなど被っていないのだから、単に一般的にイスラーム教というと緑とされているから、背景に緑を用いたのだろう、という。

銃撃の政治紙「すべては許される」と預言者風刺 (読売新聞) - Yahoo!ニュース
読売記事に「事実誤認」があるというのだが、「表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った」とある。そもそも、読売記事は「緑色」の説明をしているのであって、「シャルリー・エブド」が何を意図したかということを書いているのではないと俺には思えるのだが。


次に

また、ムハンマドの表象自体は、一般的ではないとはいえ、イスラーム世界でもかつては伝統的に存在していた。中世イランのミニアチュールなどでは、ムハンマドが描かれている。

とあるけれど、読売記事には

イスラム教ではムハンマド預言者を画像にすること自体が厳禁されている

とあり、これは確かに正確さを欠いているように思われる。ただし、

イスラム教ではもともと偶像崇拝が禁止され、ムハンマドの肖像を描くこと自体がタブー視されている。

CNN.co.jp : 風刺か侮辱か シャルリー紙最新号の表紙にイスラム預言者

イスラム教では預言者ムハンマドの肖像を描くことは禁じられていますが、

仏週刊紙が特別号 預言者風刺画 再び掲載/イスラム教徒は反発(しんぶん赤旗)

イスラム教ではムハンマドを描くことは禁止されているため、イスラム教徒からは反発の声も聞かれました。

「テロ被害の新聞社 最新号発売、各地で売り切れ」 News i - TBSの動画ニュースサイト
と読売以外でも同様のことが書かれている。


一方、ウォール・ストリート・ジャーナル日本版は

 多くのイスラム教徒は、預言者ムハンマドを描くことは禁じられており、それはコーラン偶像崇拝や、「偽の偶像」崇拝につながる可能性のある全てのことを禁じているためだとしている。

仏紙風刺画は「正当化できない挑発」―中東メディア - WSJ
と書いている。これが一番適切だろう。


そもそも「イスラム教では」という書きかたでは、聖典で禁じているのか、聖職者が禁じているのか、法学者が禁じているのか、一般のイスラム教徒がそう解釈しているのかといったことが曖昧であろう。その点、WSJは「多くのイスラム教徒は」と主語がはっきりしている。


したがって槍玉にあがっている読売記事は正確さを欠くといえば欠くわけだが、じゃあ

また、ムハンマドの表象自体は、一般的ではないとはいえ、イスラーム世界でもかつては伝統的に存在していた。中世イランのミニアチュールなどでは、ムハンマドが描かれている。

はどうなのかといえば、イランはシーア派が90%と圧倒的多数を占める国である。

憲法では公式にシーア派イスラーム十二イマーム派を国教としており、他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”(12条)が謳われている。

イラン - Wikipedia

スンニ派に比べ、一般に神秘主義的傾向が強い。宗教的存在を絵にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランで公の場に多くの聖者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンニ派に比べ一般に広く行われている。

シーア派 - Wikipedia
そういう説明を欠いてるのもどうよって話ではなかろうか。



あと2ページ目にこの風刺画の解釈が書かれているけれど、まあどう受け取ろうと人それぞれだよねって思うしかあるまい。

フランス人

今回の事件について何か書こうとすると、ついつい「フランス人は」とか「フランス国民は」とか書きたくなる。しかし今回のテロ実行犯もフランス人であり、彼らが「イスラム教の預言者を風刺する自由」に同意できなかったのはほぼ間違いない。


もちろんある集団が持つ特徴を表現するときに、そこに例外があることはごく普通のことであって、100%そうでなければ不適切だなんてことを言っていたら、記述はおそろしく煩雑なものになってしまう。


とはいえ、今回のケースのような場合は、この「表現の自由」に同意できない人が、ムスリムに多いだろうということが予想され、つまりフランス人という大集団の中に均一に例外がいるということではないだろう。じゃあ「非ムスリムのフランス人は」と表現すれば適切かといえば、もちろんムスリムも多様だし、非ムスリムも多様だから到底適切だとは思えない。


結構難しい。


ただ、思うにこの「(フランス流の)表現の自由」を守るのが、「あるべきフランス人」の姿であるという理念は存在しているように思われる。


法律上のフランス人の中に、その「あるべきフランス人になりたい、なれる」と考える人と、「なることができない」と考える人がいるんじゃないかと思う。そして後者は社会から「あるべきフランス人」になるよう求められているのにそれができないことに対して劣等感・疎外感を持つことになるという、そんな感じじゃなかろうかと思う。


自信はない。