「文化」としての特定郵便局

「文化」としての農のつづき

俺は郵政民営化に賛成したんだけど、改革には「正」の部分もあれば「負」の部分もある。で、その「負」の部分について。といっても一般にはそうは捉えられていないだろうけど。

「郵便取扱所」は国の役所ではありますが、民間の人々の協力によって開設されたものです。現在では考えられないことですが、「郵便取扱所」の取扱人(のち の特定郵便局長)となり、国の行う仕事を担うことは、当時はお金に換えられない"名誉"と思われており、新しい国づくりに自らも力を尽くせることは、この 上ない誇りであったのです。その名誉とひき換えに、各地の資産家、知名人が、名ばかりの手当で郵便局の開設と運営に協力したのでした。

全国特定郵便局長会http://www.zentoku.org/organization/index.html


上の話はかなり有名だと思う。で、「各地の資産家、知名人」というのは、多くは江戸時代の庄屋階級のこと。彼らの身分は「農」で、支配される側の人間だけど、苗字帯刀を許されていた。そしてさらに遡れば中世の地侍だ。非常に長い歴史を持っている。
彼らは、武士になりそこねたということもあるだろうけど、兵農分離の時代になっても土地に執着したため、あえてそれを選択した場合も多かったろう。というわけで彼らは被支配者といっても誇りを持っていたと思う。


で、明治維新になって「四民平等」の世の中になった。武士階級は職を失った。元武士は軍人・警官になったり、教師になったり、事業家になったり、あるいは没落したりして、要するに武士という階級は解体した。一方、庄屋階級は地域に根差していたから、引き続き「地元の名士」ということになった。その中の一部が名誉職として特定郵便局の運営に携わった。その後、日本の社会は大きく変わっていくことになるわけだけど、今でも「地元の名士」。


つまり、彼らは、地侍→庄屋→特定郵便局長と、呼び名は変わり、職業も変化したけど、長い歴史を生き抜いてきた人達(家)だ。
そう考えると、彼らが郵政民営化に反対したのは、単に利権がなくなるという問題ではなく、自覚しているかわからないけど、彼らのアイデンティティの問題であるという部分が大きいのではないかと思う。民営化によって、むしろ金儲けのチャンスが広がるとしても、それではただの商売人になってしまう。


だが、今は民主主義の世の中。平等が絶対的な正義。そんなことを言っても反感を買うだけだから、なかなか表面には出てこない。
しかし、特定郵便局の問題にしろ、農家の問題にしろ、零細商店の問題にしろ、「経済合理性」だけで上手く解決できるのだろうか。あるいはしていいものなのか。彼らの「誇り」を損なわない方法を模索することが改革の早道になるかもしれないと思ったりもするんだけど、よくわからない。ただそういう視点ってあんまりないように思う。