藩民意識

ひとつじゃない福島、会津という神話 [ EP: 科学に佇む心と身体 ]

 福島の中は、分裂しているんだ。ていうか、もともと別様の文化圏が、文化に関係なく県という行政の枠でひとからげにされてる。

俺がこれを知ったのは10年程前にNHK教育でやっていた「ふるさと日本のことば」でだった。正直今でもそれほど詳しくない。


ところで、これに戊辰戦争という要素を加えた場合には、「福島」でいっしょくたにするどころか会津」の中で武士階級とそれ以外をいっしょくたにしてしまうのもどうなんだろうと思う。


会津のことはよくわからないけれど、歴史知識としては、戦国時代から江戸時代にかけて兵農分離が進み、在地の小領主は土地から離れて城下に集住し、さらに大名は国替で移動させられた。


会津松平氏の初代は保科正之で、徳川家光の弟、すなわち家康の孫。会津の領主になったのは1643年で、それ以来幕末まで続いたのだから、領主が頻繁に交代する土地よりも、領主と領民の間は緊密だったのかもしれない。でも、徳川時代において永久に会津の領主であることが保証されていたわけではないはず。国替を命じられれば、領主だけでなく家臣一同が土地を離れるべき存在(帰農して土着するってこともあるかもしれないけれど)。そして実際、戊辰戦争に敗れた会津藩士は斗南に移住させられた。


藩士は藩主に従属する存在であって、領民は土地に従属する存在。藩士は藩主に対する忠誠を求められた。両者の意識は異なっていたはず。ただし、幕末に長州で奇兵隊が結成され、藩士ではない町人・農民が参加した。


幕末に藩民意識が全く存在していなかったというわけではないだろうけれど、地域にもよるだろうし、この辺も全く詳しくない。


(追記 6/9)
会津世直し一揆 - Wikipedia

また、19日には旧藩主松平容保・喜徳父子が東京に護送されることになったが、領民は戦争を引き起こしながら降伏後切腹もせずに生き延びた父子に対する尊敬の念を失い、あらゆる方面で冷たい無関心(cold indifference)が示されたこと、武士は容保に同情したが、農民は護送される藩主父子に対して面も背けず野良仕事を続けていたことを記している。彼はたとえ容保やその家臣が恩赦を受けても支配者として会津に戻ることは不可能であろうとその手記をしめくくっている。

「戦死者の放置プレイは、会津軍だけが対象だったわけではなく、官軍側の死者も同様の扱いだった」という説があると上の記事にはあるけれど、何と、そもそも遺体放置命令の存在自体が怪しい話らしい(逆に埋葬命令が出てたそうだ)。
なぜ遺体は埋葬されなかったのか


※静岡で清水次郎長が遺体放置の命令を無視して埋葬したという伝説もあるけれど。
戊辰戦争 咸臨丸事件の真相・彰義隊戦死者埋葬の真相