西郷頼母

歴史秘話ヒストリア「妻たちの会津戦争〜反骨の家老 西郷頼母と家族の悲劇〜」


西郷頼母が抗戦を主張したのに受け入れられず城を去ったと言ってたけどウィキペディアだと

そこで若松城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めた。しかし会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は、長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することとなった。なお、母や妻子など一族21人は頼母の登城後に自邸で自刃した[1]。この際の頼母自身は「軽き使者の任を仰せつかり…」、と述べており(栖雲記)、越後口の萱野長修の軍への連絡にかこつけた追放措置とされる。道中には藩主・容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬけるが、刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいう。

西郷頼母 - Wikipedia
となってて頼母が恭順派ということになってる。


どゆこと?


「抗戦派説」

戸ノ口原の戦いで新政府軍が会津軍を破って滝沢峠に迫ったとの報告を受けると頼母は、冬坂峠(背炙峠)から急ぎ会津若松城に帰還し、会津藩が恭順派と抗戦派に分かれるなか、早期恭順を唱えていた頼母は、この期に及んで和睦を論ずる重臣に激昂し、藩主・松平容保重臣切腹を迫り、鶴ヶ城にて全員玉砕を主張したため、藩内の結束が乱れた。藩主・松平容保はやむなく頼母を追放措置とした。
恭順派であった頼母が会津脱出後も、箱舘戦争にも参加しており、恭順派の頼母が抗戦派になったかはなぞである。

「八重の桜」 西郷 頼母 - やごえもんの夕暮れ - Yahoo!ブログ


「恭順派説」

西郷頼母は再び藩主に恭順を諫言し主戦派の重役を非難した為に頼母を暗殺をしようという空気が見え始めた為、容保は頼母の身を案じ城外の陣将への伝言役という名目で脱出させた。

幕末偉人伝(無名の偉人たち): 会津藩主の怒りをかった家老  西郷頼母



ざっと見た感じだと、どっちの説も相当数あるようだ。


これは定説と俗説という関係なのか?それとも学者の間でも意見が分かれているということなのか?どっち?


何かどっちも一方通行で「あっちの説は間違ってる」みたいな批判が見つからないのだが…


(追記 21:25)

籠城戦では、頼母の母親や妻女など一族21人が自刃、白虎隊士の自刃に次ぐ悲劇となる。当初から不戦恭順論だったはずの頼母はこれを機に藩主一同玉砕を進言、城から退去させられる。

第26回〜|登場人物|NHK大河ドラマ「八重の桜」

恭順を訴えたことで、再び容保と対立することになった頼母。降伏すべきか、戦い抜くべきか――。それぞれが悩み考え抜いた覚悟を胸に、己が信じる道を歩み出す。容保と頼母、そして八重の道とは…!? 3人の秘めた思いも明らかに。

第9回 「八月の動乱」|あらすじ|NHK大河ドラマ「八重の桜」


来週「抗戦論」に転向するってことなのだろうか?しかし「退去」の話は今週出てきてるし、それは頼母が「恭順論」で他と対立してたからってことになってるようにしか思えないんだけど…