会津戊辰戦史

近代デジタルライブラリー会津戊辰戦史」(会津戊辰戦史編纂会 編,1933)より

 此日西郷頼母越後より帰陣の陣将に伝命の使を奉じ(栖雲記)、高久に赴かんとし二公に黒金門に拝辞し了て太鼓門を出でんとし梁瀬三左衛門に別を告ぐ、三左衛門は使を奉ずるの事情を聞き嘆じて曰く、此等の使命は使番にて足れり、

(中略)

感慨無量悄然として城を出ず、人皆別を惜む、

(中略)

或は曰く、頼母曩に白河方面の総督たり、白河城陥るに及び海内の大勢を察し、講和の策を建言したるも行はれず其の職を罷めらる、攻守急なるに及び再び起つて事を視せしむ、(続国史略後編、内田藤八筆記)、既にして同僚中或は和を唱ふる者あり、頼母之に謂つて曰く、卿等前に余が和議を排しながら今日に至つて和を説くは何ぞや、武門の恥辱は城下の盟より大なるはなし、唯城を枕にし一死君恩に報ゆるあるのみと、秋月悌次郎出でゝ之を調停せんと欲す、頼母声を励して曰く、重臣国事を議す汝等の喙を容るべき所にあらずと、刀を按して起つ、悌次郎懼れて退く、梶原平馬、原田対馬、海老名郡治等之を憤り、密に相議し之を佐川官兵衛に謀らずして我が公に白うし、頼母に命ずるに陣将萱野権兵衛と上田学太輔に命を致すを以てすと、(内田藤八筆記、古河末東所聞)、

或は曰く、頼母が白河に敗れて我が公に講和策を献ずるや、是より先我が降伏謝罪表が西軍薩長参謀の阻止する所となりて朝廷に達せず、仙台藩士は大に憤りて世良参謀を惨殺し、遂に奥羽列藩の攻守同盟を締結するに至りし際なれば、当時講和の望は絶無にして其の献策の容れられざりしは寧ろ当然の情勢なりしに拘はらず、(既記の事実)、頼母若松に帰還入城後諸士に対し慷慨悲憤の口吻を以て今日此の窮地に陥るは家老等予の献策を容れざるの致す所なりと、之を痛撃讒謗したること城中に知れ渡り、此の儘に放置するときは諸士を煽動し城内の一致を破るの恐あるを以て、些細の使命に託して城中より遠ざけられしなりと、(柴太一郎談)、

要するに、西郷頼母が城から出された理由は複数あったわけだ。


しかし、よく読めばこれは「徹底抗戦説」と「恭順説」の二つがあったというわけではない


一つ目は、確かに「徹底抗戦説」ではあるが、城内に和を唱えるものがあるのを知った頼母が「俺の言うことを聞かなかったくせに今更何を言っている」とキレたという話だ。


二つ目は、頼母が「あのとき講和していればこんなことにならなかったのに、お前らのせいだ」とキレたという話。どう読んでも「恭順説」ではない。こっちも頼母は戦うつもりだったのだと思われる。戦わざるをえない状況になったことの愚痴を言ったということだ。


二つの話は異なるようにみえて、一つの点で一致している。それは


「頼母うぜえええええええ」


ということだ。頼母は正しかった。もっと早く頼母の言うことを聞いていればこんなことにはならなかった。そのことは城中の人間は痛いほどわかっていた。わかっていたけれども、グチグチ言う頼母に対して、


「頼母うぜええええええええ」


と思ったということでしょう。そんで追い出されたってことだと俺はほぼ確信しますね。