内田樹vs田島正樹

何故対立しなければいけないのか - Living, Loving, Thinking

最近ネットの論壇記事を見ることがめっきり減ってしまったので、こんな面白いことがあったことを知らなかった。これについて思うところを書きたいんだけれど、論点てんこ盛りでどっから手をつければいいのか悩む。それに脳内では割と簡潔にまとめることができるんだけれど、それを文字にしようとすると説明が非常に難しかったりする。


内田樹については、ここで度々批判してきた。内田氏は出鱈目なことを頻繁に書く。元より俺の批判など見ていないだろうけれど、氏に対する批判的言説は多い。しかし氏は無敵である。なぜなら、「絶対的な正さなど存在しない」という呪文を持っているからだ。それ故に「あなたにとっては私の言っていることが間違っているのかもしれないが、それは絶対的なものではない」と唱えることによって、攻撃を無効化してしまう。


それに対し「絶対的な正さは存在する」という考えを持っていれば話は簡単かもしれないけれど、こっちもまた「絶対的な正さなど存在しない」という側の人間であるから、この呪文を唱えられたときにどう反撃すればよいのかということになる。


で、それについて書こうとすれば、それだけで長文の記事になってしまうので、ここではそういう内田樹のいやらしさについてだけ指摘しておく。



一方、田島正樹であるが、田島氏は田島氏で、氏の内田氏の主張への違和感は共有できても、読み進めていくうちに、どんどんハテナマークが脳内に浮かんでくる。


最も違和感を抱くのは

 だからこそ、昔から左翼は、このような欺瞞的な融和の夢を引き裂く敵対的言説として存立してきたのである。左翼は、みずからゲームの超越論的主催者を装うことなく、不偏不党性を僭称する支配的言説に対する挑戦者として常に存在する。それは対立を隠蔽するのではなく、対立軸を鮮明にするのだ。

の部分であり、それはsumita-m氏の指摘する通りだ。


そもそも、この違和感は、
田島正樹氏の言う「保守主義」と俺の考える保守があまりにも違いすぎる
で抱いた違和感と共通のもので、田島氏の定義している「左翼」(「保守」についても)というものが、俺の定義する「左翼」とは大きく異なっており、それはおそらく俺一人のことではなくて、現代日本(海外のことはよくわからないけど)における左右どちら側から見た場合の「左翼」の定義ともかなり違うものなのではないかと思われ。


(つづくかも)