田島正樹氏の言う「保守主義」と俺の考える保守があまりにも違いすぎる (2)

田島正樹氏の述べるところの「保守」と「革新」についての違和感について具体的に指摘していきたい。それについて俺が思うところを書いただけでは俺の勘違いであるかもしれないので、信用できる書物を利用したいとは思う。だけど、実のところ俺はの手の書物を所持していない。ここが素人の悲しいところ。

(しかし、そもそも保守主義について解説している本が少ないと思う。俺が図書館で探して、これは役に立つと思ったのは、ここで再三引用しているロバート・ニスベットの『保守主義 夢と現実』(昭和堂)のみであった。Amazonで「保守主義」を検索すると今日現在で944件ヒットする。割と多いのかもしれないけれど、この中には会計用語としての保守主義が含まれるし、日本の保守政治の解説みたいなのも多いから、俺の欲するものは僅かしかないことが予想される)


というわけで、以下で引用するのは『保守主義 夢と現実』からのものであり、引用が無い場合は、俺が保守主義とはこういうものであると考えているものであって誤解しているかもしれないということをあらかじめ断っておく(よくわからないところはなるべく「思う」とか「だろう」とか書くつもり)。


進歩・前進
保守と対立するものは「革新」だ。ソ連崩壊、ポストモダン思想などにより、現在はそれほどでもないかもしれないけれど、革新は「進歩」とか「前進」という言葉を好んで使う。進歩・前進というからには、進むべき方向が存在するということになる。それがなければ進んでいるのか後退しているのか、あるいは同じところをグルグルと回っているだけなのかわからない。


その「進むべき方向」だけれど、それは人類の歴史は試行錯誤を繰り返しながらも、より良い方向に進んでいると考えるのならば、短期的な観察ではわからないにしろ、まさに今進んでいる方向こそが、その進むべき方向ということになる。つまり、放っておいても時間はかかるかもしれないが「必然的に」進歩することになるはずだ。この考えをさらに進めれば、過去の人類の歴史を研究して、そこに法則を見出せば、進むべき未来も予測できるということになる。だとすれば、その進むべき方向を実現するための行動は「絶対的に正しい」ということになる。


ところで、保守は「歴史と伝統」を重視するとよく言われる。ところが革新も上に書いたように、それらを軽視しているわけではない。ただし、それらに対する認識がまるで違うのだ。

バークやド・メストル、サヴィニーその他の初期保守主義者の観点からすれば、真の歴史は直線的で年代記的な仕方で表現されるのではなく、世代から世代へと伝えられるもろもろの構造、共同社会、習慣、偏見の持続性によって表現される。真の歴史的方法はただたんに過去を絶えず振り返ることでもなければ、ましてや物語を物語ることでもない。それは現在の中にあるものすべてを明かるみに出すような仕方で現在を研究する方法である。そしてこのことは、行動や思考には実に無限の様態があって、それらを十分に理解するにはそれらが過去に錨をおろしていることを承認しなければならないことを意味している。
保守主義 夢と現実』

革新にとっての「歴史」とは、そこから一般的な法則を見つけ出したり、人類に普遍的な要素を抽出したりして、未来のあるべき姿を導き出そうとするようなものなのであろう。しかし、保守主義者の目から見れば、そのようなことは人間の知性の限界を超えている。

バークはこう書いている。「およそ人間性というものは一筋縄ではいかないものであり、社会の事柄は考えられないほど複雑なものである。それゆえ、力のある単一的な配慮もしくは方向性はどれも人間性もしくは人間的事象の質に適合しえない。」
保守主義 夢と現実』


であるなら、田島氏が「保守的」として説明する

 これに対し後者は、我々の相続遺産(精神や文化)の起源を遡及して問う見方である。歴史の中には時を超えて永続するものがあるはずだが、しばしばそれは見る影もなく歪曲され、通俗化された理解の中に埋もれてしまっている。それをその起源にさかのぼって取り戻そうとするのである。
 ロストロポーヴィッチチャイコフスキーの音楽について語ったところによれば、「我が国では、チャイコフスキーの音楽はある伝統に組み込まれているが、その伝統たるや、幾世代にもわたって培われてきたいろいろの要素を、それも外面的効果を生み出す他に取り柄のない、悪趣味の要素を濫用したものにすぎない。」だからこそ、伝統は受け継がれてきただけの偽の「伝統」に抗して、起源にさかのぼって反復され、奪取されるべきものとなる。ヘルダリンは、かかる永続する精神の非連続的継承を『パトモス』の冒頭で歌っている。

というようなことは「保守主義」からかけ離れた考え方ではないかと思われる。なぜなら「見る影もなく歪曲され、通俗化された理解」もまた伝統だからだ。そういった要素を排除して純粋な、原理的な「伝統」を抽出しようとする思想は、革新とは呼ばないかもしれないが、保守よりも革新に遥かに近い思想であると俺は思う(もっともロストロポーヴィッチの真意が田島氏の文から受けるようなものではない可能性はあるけれど。「文化の客体化」みたいなことを言ってるのかもしれない)。



※ところで、ルネサンス宗教改革はフランスの市民革命の前史として位置付けられると思うけれど、

ルネサンス(仏: Renaissance 直訳すると「再生」)とは、一義的には、14世紀 - 16世紀にイタリアを中心に西欧で興った古典古代の文化を復興しようとする歴史的文化革命あるいは運動を指す。また、これらが興った時代(14世紀 - 16世紀)を指すこともある。
ルネサンス - Wikipedia

人文主義者による聖書研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」として捉える立場もある。すなわち、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたとする考え方である。
宗教改革 - Wikipedia

とあるように、両者とも復興・復古運動的側面があった。


啓蒙思想の「天賦人権説」もまた、人類は元々は自由で平等だったという思想から来たものだと思われ、又「原始共産制」を理想とする考え方も、ある意味「伝統回帰」の思想だろうと俺は思う。


しかし、それらを保守とは言わないだろう。


(つづくかも)