田島正樹氏の言う「保守主義」と俺の考える保守(略) (3)

ララビアータ:保守主義 追補

この追捕が俺の記事を見て書かれたのかどうかは知らないけれど、これを読んでますます田島氏の保守理解が独特のものだと感じる。

むかし、エドモンド・バークの『フランス革命の考察』を読んだ時、国王の支配が人民の総意に基づくものではなく、単に法と伝統にのみ基づくものであることが記されてあるのを見て、目からうろこが落ちる思いをしたものである。法の支配が、人民の総意という民主的原理とは違うことがあるということである。

それは、「民主的原理とは違う」のかもしれないが、一体どこが違うのかといえば、チェスタトンはこう言っている。

伝統とは、あらゆる階級のうち最も日の目を見ぬ階級に、つまり我らが祖先に、投票権を与えることを意味する。死者の民主主義なのだ。単にたまたま今生きて動いているというだけで、今の人間が投票権を独占するなどというのは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何ものでもない。伝統はこれに屈服することを許さない。

死者の民主主義:「庶民の沈黙」を前提とした政治学(PDF注意)


 わたくしの保守主義は、他の一般の保守主義者と食い違うのみならず、もっての他のものとさえ映るかもしれない。保守主義によって革命や革命的行動を正当化する形になっているからである。

保守主義は革命を否定していない。否定しているのはフランス革命などの特殊な「革命」である。バークはフランス革命を否定したがアメリカ革命を支持したのだ。どうして一方を否定し、もう一方を支持したのか?

フランス革命は自由のための闘いというよりは絶対権力のための闘いであり、アメリカの指導的革命家たちとは違って「社会に足場」をもたず、現実には社会の敵であった政治的知識人に主導された事業であると考えた。
保守主義-夢と現実』

実際には、アメリカの独立は、啓蒙思想フランス革命とは正反対の理念にもとづいていた。その目的においても結果においても、アメリカの独立は、フランス革命の政治的よりどころである理性主義専制への対抗運動として成功した。
『イノベーターの条件』P・F・ドラッカー

このことを理解していれば、保守主義がその手の「革命」(ロシア革命ファシズム等)に正当性を与えることなど有り得ないのだ。


次に、

ここで考慮すべきは、バークの祖国と違って、我が国の政治的エートスには、保守主義的伝統が決定的に欠如している点である。そのため、保守主義が、何であれ現在の支配体制と実定的制度にしがみつくことと混同されてしまう。

それが田島氏の日本史理解なのであろうが、全くもって賛同できない。だが、そもそも「保守主義的伝統」とは何かについて決定的な相違があるので、それは当然だ。


俺の考える「伝統」とは、現在まで受け継がれてきたもののことだ。正邪とか真偽などで区別しない。受け継がれてきたものには、受け継がれてきた何らかの理由があるはずであり、それを尊重するのが「保守」であろう。なぜ受け継がれてきたのかが完全に理解可能なのであれば伝統など必要ないはずだ。理由がわかるのならば、その理由の方を重視すればいいのだから。保守はそれを理解するには世の中は複雑すぎるのだと考えるが故に伝統そのものを重視するのだ。これが俺の考える「保守」。


ただし、保守が伝統や闇雲に受け入れるということではない。

 当然のことながら、伝統に訴えたからといって保守主義者は過去から手渡される観念ないし物を、むやみやたらと受け入れようとしたわけではない。伝統主義の哲学は、その種のすべての哲学と同様、選択的なものである。有益な伝統は過去からもたらされなければならないが、それはまたそれ自体として望ましいものでなければならない。
保守主義-夢と現実』

バーク自身、役に立たなくなった伝統や前例は容赦なく切り捨てた。
『イノベーターの条件』

選択の条件は真偽ではなくて、有益かそうでないかである。


※ところで、田島氏は前の記事で『伝統は受け継がれてきただけの偽の「伝統」』と書いてたが、今度の記事では『ロシアのチャイコフスキー解釈の似非「伝統」』となっている。両者の意味するところは異なるのではないか?前者は「受け継がれてきた」のであるが、後者はそうではないように受け取れる。