大混乱の原因

「権利行使には義務が伴う」ってのは社会党の主張だったんだが・・・: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)


これと似たような話は前々からあり、今ではしょっちゅう見かけることだと思われ。


今の日本では「保守」を自称する人々が「保守」とは相容れないことを主張し、一方では「革新=左翼」が本来は自分達の思想こそがそういうものであるのにもかかわらず、無邪気にその「保守」の主張を自分達と相反するものであるかのように批判するという大混乱が生じているのである。


一体なぜこんなことになってしまったのだろうか?是非専門家の意見を聞いてみたいものだが探してもなかなか見つからない。そこで思いつくことを書いてみようと思うのだが、俺はド素人であるからして、間違っていることも多々あるかもしれない。俺の書いてることが間違ってると思うなら、是非とも知識を持っている方々が俺の代りにその理由を説明してほしい。


(その1)戦前・戦中=右翼・保守、戦後=左翼・革新という思い込み
戦前・戦中のことは悪であり右翼・保守思想がもたらしたものだという左側の思い込みと、逆に戦前・戦中のことなら何でも擁護して復活を希望する右側という本来の思想とはかけ離れた二項対立。


(その2)それは保守主義の思想である
現代の民主主義には保守思想がふんだんに盛り込まれていることを認識していない。フランス革命とその後継者達がもたらした悲劇を経験したヨーロッパは民主主義に保守の思想を取り入れ無垢な民主主義の暴走を抑止することに努めた。しかるに一般に現代の民主主義はフランス革命を原点として、その内部で改良・発展してきたものだとの認識が強い。そのため保守思想から生じたものであるにもかかわらず革命思想より生じたものだと思い込み右側が攻撃することがある。一方、左側もその認識に欠けているため、革命精神をより忠実に実行して「真の民主主義」が達成できれば、より良い社会がやってくると信じている。また本来相反する保守思想が原点となったものを革命思想から生じたと認識しているため内部で矛盾が生じているが自身では矛盾と認識していないため、同じこと言っているにもかかわらず右側から発せられたものであれば、どっちか一方の論理でもってどっちか一方の論理を批判するが実はブーメランになっている。


(その3)国家と中間集団の区別がつかない
保守主義は国家による規制に反対するが、伝統・慣習・宗教などは重視する。一方、自由主義は国家によるものであれ中間集団によるものであれ個人の自由を妨げるもの一切を否定する。それへの反動として国家による規制の強化を望む集団が存在する。これはもちろん「保守」では全くないが一般に「保守」と呼ばれている。一方、市民革命の思想家がいう究極の自由とは国家に個人の全てを捧げることである。現代の左翼思想の土台になっているのもこれであるが、当人達はそれを知らないので確信的に行動している人を別にすれば、自分達が何を目指しているのか良くわかっていない。