本当の民主主義

「脱原発」に不賛成なら「非国民」?(深沢明人) - BLOGOS(ブロゴス)

朝日新聞夕刊に長期連載中の「ニッポン人脈記」。
12月10日付けの「民主主義ここから」第13回は、「少しずつ社会を変える」との見出しで、反原発運動を取り上げていた。

その中の一節。

脱原発」を訴える市民集会「さようなら原発10万人集会」。7月には主催者発表で約17万人が全国から集まり、会場となった東京・代々木公園を埋め尽くした。
作家の落合恵子(67)は「私たちは決してひるみません。野田政権に訊(き)きます。あなたたちが『国民』という時、一体誰を見ているのか。今日ここにいるのが『国民』であり、市民なのです」と訴え、大きな拍手を浴びた。


こうした主張、それを容認する感覚が、私がどうしても彼らに賛同できない部分だ。

原発運動に参加する者こそが「国民」であり、それ以外の者は「国民」ではない。
将来の脱原発を志向するにしろ、安全性を確認した上での再稼働は認めてよいのではないかと考える者は「国民」ではない。


脱原発が「国民」の意思であるというとき、ではそれと異なる意思は国民の意思ではないかという疑問が出てくるのは、ごく普通の感覚である。


しかしながら、彼らはルソー流「民主主義」の正当なる後継者なのである。すなわち彼らは脱原発を「一般意思」とみなしているのであり、個人の特殊意思の総和としての全体意思のつもりで言っているのではないのである。
一般意思 とは - コトバンク


彼らは国民の多数が脱原発(全体意思)だからそれを「国民」の意思といっているのではない。一般意思だから「国民」の意思としているのである。ましてや特殊意思たる脱原発への懐疑など眼中に無いのである。


 私たちは性懲りもなく原発を推進する人たちに、本当の民主主義とは何なのか教えなければ。

 私たちの声は、「大きな音」ではないのです。原発推進を、独裁を挫折させてやろうじゃないか。そして、こんなにつらい思いをしている子どもたちに、もう少しましな明日を残してから死んでいきましょう。もう一度約束です。再稼働反対、原発そのものに反対。すべてに反対することから命は再生していくこと。

自分たちの運動が「本当の民主主義」であり、現在の民主制により成立した野田政権は「独裁」なのだと。

誤解してはいけないのは、彼らが「本当の民主主義」と言っているのは、間違っているのではなくて正しいのである。ルソーの思想が民主主義の本流だと考えているのなら、これこそが「本当の民主主義」なのである。


そして、この思想がフランス革命ロシア革命、中国、北朝鮮カンボジア、さらに日本のサヨク、さらにさらに「真性保守」を自称する国家主義者、ネトウヨ、リフレ派、ニセ科学ニセ科学批判その他いろいろな所に受け継がれ流入しているのである。