内田樹vs田島正樹(その2)

続きを書こうと思ってたけれど、何か面倒臭くなってきた。


そもそも、内田氏は

つまり、いずれの立場に立とうと、己れを絶対化して不可疑のまま前提するという点で、似た者同士になってしまうということである。かくて、「自分の正しさを雄弁に主張する知性よりも、自分の愚かさを吟味できる知性の方が、私は好きだ」(p−259)とされるのである。

ララビアータ:暴力について

と主張なさっているらしいが、内田氏本人が日頃「自分の愚かさを吟味」しているようには全く見えないのだから、そこで終っているのである。


内田氏は

私は論争ということをしない。
自分に対する批判には一切反論しないことにしているから、論争にならないのである。
どうして反論しないかというと、私に対する批判はつねに「正しい」か「間違っている」かいずれかだからである。
批判が「正しい」ならむろん私には反論できないし、すべきでもない。
私が無知であるとか、態度が悪いとか、非人情であるとかいうご批判はすべて事実であるので、私に反論の余地はない。粛々とご叱正の前に頭を垂れるばかりである。
また、批判が「間違っている」なら、この場合はさらに反論を要さない。
私のような「わかりやすい」論を立てている人間の書き物への批判が誤っている場合、それはその人の知性がかなり不調だということの証左である。そのような不具合な知性を相手にして人の道、ことの理を説いて聴かせるのは純粋な消耗である。
というわけで私はどなたからどのような批判を寄せられても反論しないことを党是としている。

読者と書籍購入者 (内田樹の研究室)
とブログにて主張している。


反論するしないは勝手にすればいいけれど、ここからは「自分の愚かさを吟味」している様子は一切窺えないのである。これはただの開き直りであって「小さな人」のすることでしょう。