言いたいことはわからなくもないけど的外れ

自分がそうではないという自信は全くないけれど…


呉智英という人のことは名前はよく見かけるんだけど、あまりよく知らない。


「ウィキペディア」
によると、漫画評論家で、随分昔から活動していたそうだが知らない。まあ俺の場合、呉氏だけでなく、他の評論家、特にサブカルチャー関係の人については、ほとんど無知で、名前だけはよく見かけて、社会評論をしているということだけは知っていて、知っているけど、どんなことを言っているのかは知らないで、知らないんだけど、ブログとかで言及されているのはよく知っているという、なんだかわけがわからない状態。


まあ、これは俺だけじゃなく、そんな人はいっぱいいると思う。俺なんかまだましなほうで、例えば俺の親なんか、実家に帰省すると、『文藝春秋』とか置いてあるから、きっとこういう人達が書いた文も読んでいるんだろうと思うんだけど、どんな人なのかなんて絶対に知らないと思うし、読んでいても自分の文脈で理解してるだけだと思う。


それはそれとして、呉氏について最近の関心は、例の坂東眞砂子氏の「子猫殺し」騒動で、『文藝春秋』10月号の、『坂東眞砂子「子猫殺し」を論ず』を小谷野先生が紹介してたから読んだこと。思いっきり要約すれば、呉氏の主張は、「動物の権利」を主張するなどトンデモナイという主張。


全く同感だ。


ところが、呉氏の批判の矛先は、坂東氏を批判する人達に向かっているのに、一方、俺はそうではなく、坂東氏に批判的。なぜなら、「動物の権利」を主張しているのは、坂東氏その人だと思うから。


一体、何でこんな正反対のことになってしまうのか?思うに、それは、呉氏が、猫を殺すのは可哀想だという感情と、「動物の権利」を主張することとを同列に扱っているからだろう。ただし、何度読み返してみても、何でいきなりそういうことになっているのか、理解できない。本当に唐突に繋がっている。おそらく氏の中では自明のことなのであろう。こちらにはさっぱりわからないけど。


一方、呉氏は

坂東の文章をちゃんと読めば(別段難解な文章でもないし)、十分に説得力を感じる。

と書いているけど、その坂東氏の文章には、

獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。
その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。

と書いてあるわけで、これこそまさに「動物の権利」を主張するものだと、俺には読めるのだけど、呉氏にとってはそうは見えないらしい。不思議なことだ。