では諭吉は何と言っているのか?

福翁自伝』に限れば、福沢諭吉は、「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」などとは言っていない。ではこの問題について何と言っているのか?無知な俺は知らない。


ただ、『文明論之概略』には、それらしきことが書いてあるようだ。それによると、諭吉の考えでは、「宗教は文明の度に従て形を改る」ということのようだ。


キリスト教と一口に言っても時代によって異なっている。新教が盛んになったのは時代の要請に適っていたからだ。ただし、新教だから優れているとか、旧教だから劣っているとは必ずしも言えず、旧教であっても文明に適合して教風を改めている。日本でも仏教は最初、天台・真言宗のように呪術を重要視していたが、時代とともに新仏教が盛んになってきた。もし弘法大師が現代に再生したとしても、これを信じる者は甚だ稀であろう。というようなことを主張している。

故に今日の人民はまさに今日の宗旨に適し、宗旨も人民に満足し、人民も宗旨に満足して、互に不平ある可らず。若し日本の文明 今より次第に進て、今の一向宗をも虚誕なりとして之を厭ふに至らば、必ず又別の一向宗を生ずることもある可し。或は西洋に行はるゝ宗旨を其まゝに採用することもある可し。結局宗旨のことは之を度外に置く可きのみ。学者の力を尽すも政府の権を用るも如何ともす可きものに非ず。唯自然の成行に任ず可きのみ。故に書を著して宗旨の是非正邪を論じ、法を設けて宗旨の教を支配せんとする者は、天下の至愚と云ふ可し。

『文明論之概略』(世界の古典つまみ食い)


「学者の力を尽すも政府の権を用るも如何ともす可きものに非ず。唯自然の成行に任ず可きのみ。」


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