『「空気」の研究』と福沢諭吉

山本七平の『「空気」の研究』には以下のような記述がある。

物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言いかえれば物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずのうちにその何かの影響を受けるという状態、この状態の指摘とそれへの抵抗は、『福翁自伝』にもでてく。るしかし彼は、否彼のみならず明治の啓蒙家たちは、「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」と考えても、「日本人が、なぜ、物質の背後に何かが臨在すると考えるのか、またなぜ何か臨在すると感じて身体的影響を受けるほど強くその影響を受けるのか。まずそれを解明すべきだ」とは考えなかった。

最近、有名ブログで引用されて話題になっていた。
幻影随想: 疑似科学と「空気」の研究


確かにこのような考えを持っている人はいるだろうけれど、気になるのは、ここで名指しされている福沢諭吉は、

「石ころは物質にすぎない。この物質を拝むことは迷信であり、野蛮である。文明開化の科学的態度とはそれを否定棄却すること、そのため啓蒙的科学的教育をすべきだ、そしてそれで十分だ」

などと、本当に考えていたのかということ。


一点だけ言えることは、『福翁自伝』には、そのような趣旨のことは書いていないということ。


福翁自伝』には、少年時代の諭吉が、稲荷の神体である石を捨てて、代わりに別の石を入れて置いたというエピソードが書いてある。だが、それは自分がこういう少年であったということを語ったにすぎないものだ。これは「自伝」である。そして、日本人は自分のようにあるべきだなどという趣旨は一切書いてない。ついでに、これは「少年時代」のことであり、諭吉が西洋文明と接触する前のことだ。


俺は、諭吉の著作は、『福翁自伝』しか読んだことがない。外の著作でそのようなことを言っている可能性はあるだろう。しかし、山本七平がこの記述を読んで「背後に何かが臨在していると感じ」たのかも知れないと疑っている。


諭吉は本当はどう考えていたのだろうか?



CiNii - 山本七平における福澤諭吉
非常に興味をそそるタイトルだけど中身不明。