用明天皇は実在するのか?

上で「崇峻天皇は実在するのか?」と書いたが、その前の用明天皇の実在も疑問だ。『日本書紀』の用明天皇の記事もまた、実のところ推古天皇蘇我馬子物部守屋聖徳太子穴穂部皇子に関する記事が大半を占める。


用明天皇が「主役」として登場する記事といえば、死ぬ前に仏法僧の三法に帰依したいと群臣に語ったということだけだ。そして、用明天皇の最大の存在意義は、聖徳太子の父であるということだ。聖徳太子といえば仏教だ。その父親が死の間際に仏教に帰依しようとした。ちなみに用明天皇が病になったのは新嘗祭当日である。つまり、これは神と仏の対立を暗示した神話的な物語だ。用明天皇が群臣に語った時、物部守屋は反対し、蘇我馬子は賛成した。排仏派と崇仏派との争いだ。両派の争いは日本に仏教が渡来したとされる欽明天皇の時代、次の敏達天皇、そして後の崇峻天皇の時代の記事にも見られる。


俺の推理ではこうだ。おそらく排仏派と崇仏派との争いは仏教側の史料として一つにまとまったものがあって、それを天皇の代ごとに分割したのだろう。そこでの主役はもちろん聖徳太子蘇我馬子。そしておそらくその史料に聖徳太子の父が天皇だという記事があったのだろう。それ以外の史料で用明天皇の実在を示すものはなかったが無視することはできない。そこで学者は聖徳太子の父である大兄皇子は天皇に即位したのだと判断した。


おそらくそういうことだろう。


ところで、崇峻天皇用明天皇が実は天皇(大王)でなかったとすると、推古天皇の前は敏達天皇ということになる。敏達天皇14年、天皇任那再興を考え、坂田耳子王を使いに選んだ。ところが、この時天皇と物部大連は疱瘡にかかり、取りやめとなった。そして、天皇の病は治らず8月に崩御してしまった。つまりこれも「死亡フラグ」だったのだ。敏達の次が推古なら「神話」が成立する。ところがここに用明天皇を入れると推古の前の天皇に不幸が訪れなくなってしまう(別の不幸が訪れているが)。崇峻天皇はその穴を埋めるために必要だったのだ。もちろんそこには「誰々のため」などという陰謀は存在しない。複数の史料の間にある矛盾を「合理的」に解決するためにしたことで、当時の学者は「これこそが歴史の真相である」と思ってやったことなのだろう。


とトンデモな考察をしてみました。