敏達天皇は実在するのか?

欽明・敏達・用明天皇の晩年についての記事を『全現代語訳 日本書紀』(宇治谷孟 講談社)より引用。


欽明天皇

三十二年春三月五日、坂田耳子郎君を使者として新羅に遣わし、任那の滅んだわけを問わせた。
(中略)
夏四月十五日、天皇は病に臥せられた。皇太子は他に赴いて不在であったので、駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて、その手をとり詔して、「自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って、任那を封じ建てよ。またかつてのごとく両者相和する仲となるならば、死んでも思い残すことはない」といわれた。
この月、天皇はついに大殿に崩御された。時に年、若干。

敏達天皇

天皇任那の再興を考え、坂田耳子王を使いにえらばれた。このとき天皇と大連が急に疱瘡に冒された。それで遣わされることをやめた。橘豊日皇子(後の用明天皇)に詔して、「先帝の勅に背かぬように、任那復興の政策を怠るな」といわれた。

「坂田耳子」という人物を派遣しようとしたこと(敏達は取りやめた)。皇太子に遺言したこと、欽明と敏達はそっくりだ。


用明天皇

二年四月二日、磐余の河上で、新嘗の大祭が行われた。この日天皇は病にかかられて宮中に帰られた。群臣がおそばに侍り、天皇は群臣にいわれた。「自分は仏・法・僧の三法に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい」と。
(中略)
天皇の疱瘡はいよいよ重くなった。亡くなられようとするときに、鞍部多須奈が前に進み出て、「私は天皇のおんために出家して修道致します。また丈六の仏と寺をお造り申しましょう」と奏上した。天皇は悲しんで大声で泣かれた。

用明の場合、「新羅を討って任那再興」という「死亡フラグ」はないが、代わりに仏教に帰依するというのが、神の怒りを招く発言で、これもまた「死亡フラグ」ではないかと考えられる。そして「遺言」はないが、代わりに臣が天皇に話しかけている。そういう意味では、欽明・敏達天皇用明天皇は重なっている。用明の最期は、欽明・敏達の最期の別バージョンであるようにも見える。


「神話」の構造上、用明天皇の遺志を引き継ぐべきは聖徳太子のはずなのに、太子が登場せず、鞍部多須奈が登場するのは不思議といえば不思議だが、面白いのは、用明天皇崩御したのが用明二年四月九日。聖徳太子が皇太子になったのが推古元年四月十日だということ。推古天皇の伝記では、先代天皇の「異常な死」のために崇峻天皇を必要とした。ところが聖徳太子の伝記では用明を必要としたが、崇峻は必要なかったと考えれば辻褄が合うのではないか。逆に言えば推古天皇の伝記では用明は必要ないということだが、用明が天皇でなければ崇峻も必要がなくなり「敏達-推古」となる。


ところで、『日本書紀』推古紀記載の推古の年齢を見ると、敏達崩御のときが三十四歳、崇峻暗殺が崇峻五年で三十九歳。用明天皇の二年がすっぽり抜けている(多くの人が指摘している)。それに敏達天皇の皇后になったのが十八歳というが、敏達紀では敏達五年(576)のことだと言う。しかし、敏達崩御が585年だから、その時27歳のはず。用明・崇峻の7年を足せば34歳になる。すると今度は崇峻暗殺までの5年が空白になってしまう。もうわけがわからない(おそらく敏達・推古の伝記から用明・崇峻の分を流用したのが原因だろうが)。『日本書紀』の編者もわけがわからなかったから、わざわざ、書く必要もない年齢のことを書いて、後世の判断に任せようと思ったのだろう。しかし、そもそもわけがわからなくなった原因は別系統の伝記を強引に一つにまとめたからだろう。


さて、本題は「敏達天皇は実在するのか?」だが、上の引用文を見れば明らかなように、欽明天皇敏達天皇の晩年は瓜二つだ。元は「同じ話」だったのだと思う。それについて書くつもりだったが、長くなってしまったので次回につづく。