久しぶりに右翼と左翼について書いてみる

世界を上下に分けて下に味方するのが左翼、世界をウチとソトに分けてウチに味方するのが右翼 - Zopeジャンキー日記


ここで紹介されている松尾匡氏の「右翼と左翼」の定義についてについては前に書いた。
松尾匡氏の「右翼と左翼」の定義について - 国家鮟鱇


簡単に言えば、この定義には「保守」が抜けているってことだ。


世界を「ウチ」と「ソト」に分けて、「ウチ」に帰属すると認識するが、「ソト」が「ウチ」に干渉しない限り「ソト」に無関心なのが保守である。


改めて見直してみれば、保守が無関心なのは「ウチ」と「ソト」の関係だけではない。「上」と「下」の関係についても無関心と言えるだろう。すなわち、この定義のどこにも属さないってことだ。


もう一つ言いたいのは、この定義は、もしも今この時点で世界が誕生したとしても(すなわち過去が存在しなくても)発生する分類だ。ところが、保守は「伝統」を尊重する。だから、この分類では保守の居場所がない。


本来、「右翼」とは、フランス革命後の国民議会で議長席から見て右側の席を占めた人達のことを指す。すなわち「国民議会に参加する資格を得た人達」の中での区分だ。だから「右翼」と「左翼」を足せば「全体」になるというわけではない。あるいはそれを「全体」と呼ぶのなら「全体」の中に居場所が無い人達がいるということだ。


現在ではそういうことはあまり意識されず、「全体」を区分するものとして「右翼」と「左翼」という区別をするのが一般的になっているけれど、そういう区分では現在においても居場所が無い人達が存在するのだ。彼等は一般的に「右翼」のカテゴリーに位置付けられる。確かに「保守」と「右翼」は似ているし、また混同されてもいる。しかし外見上似ていても、中身はかなり異なっていることも多い。


たとえば「保守=新自由主義」みたいなことを書いているのをしばしば見かける。確かに「小さな政府」を主張など両者は似ていると言えるかもしれない。だが、両者は全く違うものだ。というか保守は自由主義を批判してきたのだ。


何が違うのかと言えば根本的には「伝統」を重視するかしないかだ。ただし、ここにも誤解がある。たとえば、新自由主義者の中には「元号不要論」を唱える人がいる。元号など今時不便なだけだから不要だと言うのだ。それに対して多くの「保守」は同意しない。だが、この時「元号は便利だ」などという反論は、既に保守とは異質のものになっている。保守にとって便利だとか不便だとかは重要ではないのだ。それが今まで続いてきたことが重要なのだ。


(もちろん保守は何でも保守するわけではない。元号について言うなら、それを誰も必要としないような事態になっているのであれば廃止したって構わない。そうではないのに、理性でもって不便だとし、それを「自由に対する抑圧だ」みたいに考えることに反対するのだ)


(追記)
ちなみに俺の考える右翼と左翼と保守はこんな感じ(前に使ったものだけれど)。

右側の(右翼)を「保守」と読みかえてほしい。あと左側の右翼と左翼は二つの円で表現してるけれど四分割したって別に支障はない。要はリベラリズムリバタリアニズム真正保守ファシズムも皆「理性至上主義」から派生したものだってことだ。
(ちなみにピンクの枠の中で右翼でも左翼でもないのは、陰謀論者とかニセ科学・オカルト信者とかカルト宗教信者などが含まれる。彼らは一般的には理性的とは言わないだろうが理性至上主義の範疇に入るだろう)