実話と見分けがつかない嘘の場合は

何やら面白い論争がなされている。

西村清和『プラスチックの木でなにが悪いのか』:だらしない印象論と詰めの甘い議論によるトートロジーしかない本 - 山形浩生 の「経済のトリセツ」  Formerly supported by WindowsLiveJournal

西村清和『プラスチックの木はなにが悪いのか』への山形浩生氏の書評 - 昆虫亀

西村「プラスチックの木……」書評への批判を受けて。 - 山形浩生 の「経済のトリセツ」  Formerly supported by WindowsLiveJournal

山形浩生氏の再反論をうけて。 - 昆虫亀


数年前ならこういう論争が発生するとブログ界の有名どころが我も我もと論争に参加して少なくとも一ヵ月位は盛り上がっていたもんだが、最近は数日で鎮静化してしまうのでつまらない(当時それはそれでうざいという感覚も少しあったけど…)



ところで、この論争とは別にはてなブックマークで話題になっている記事がある。
実話として流通する嘘に大喜びする愚民:島国大和のド畜生


上の論争は「プラスチックの木はなにが悪いのか」という話だが、それをこっちにもあてはめると「実話と見分けがつかない嘘」に大喜びすることはどうよ?という話になると思われ。


もちろん、この記事はそんな話は嘘だということが明らかだという前提で論じているのだろうけれど、同じプラスチックの木を見ても一見して作り物だと判断できる人もいれば、判断できない人もいるだろう。山形氏曰く、

レプリカの精度が上がれば、それがどんな風に作られたかはそれを知覚する人にはわからなくなる。そうしたら? そしていまの都会人は、まともに木なんか観察したことないから、ケヤキとカシの区別もつきませんわな。人間側の精度も落ちているんだよ。

見分けが付く人には、それで喜ぶのは愚かにみえるかも知れないけれど、見分けが付かない人にとっては本物も偽物も違いはありませんわな。


それでいいのだろうか?という点で上の論争の下の記事はリンクしてますよね。