ペリーはどうして大西洋経由で日本に来たのか?(その2)

いろいろなページ見てみたけれど中途半端感がある。

(4)ペリー艦隊が、太平洋を通らなかった理由?
 まず、アメリカの歴史を調べてみましょう。アメリカ合衆国が、大西洋岸から太平洋岸までの領土になったのは、ペリー来航以前で、十年もたっていませんでした。ペリーが来航した当時は、大西洋側にしか海軍基地が整備されてなかったのです。もちろん、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河は出来ていません。
 しかも、当時の蒸気船の能力では、途中で水と石炭燃料を大量に補給しないと、太平洋横断は無理だったのです

横須賀市自然・人文博物館


「蒸気船」を使うことが前提になっている。日本に行くのだけが目的であれば蒸気船でなくたって良いでしょう。さらに蒸気船が必要だったとしても上海にあるのだったら、そこで乗り換えればいいわけで。


すなわち、ペリーが大西洋航路を使ったのは貴重な蒸気船の一つがノーフォークにあり、それを日本に見せ付ける必要があったからということになるのではかろうか?


ところで、果たして

 しかも、当時の蒸気船の能力では、途中で水と石炭燃料を大量に補給しないと、太平洋横断は無理だったのです

は事実なのか?ノーフォークを出航してから後も西海岸までは補給は比較的容易であろう。


西海岸から日本までの航路で補給は必要なのか?もちろん日本に行くのに必要な分だけでなく帰りも必要だが、それは上海まで行ければ良いということになろう。ペリーの親書にカリフォルニアから日本まで18日間で行けるとある。


また補給が必要だとしても、それは不可能なのか?補給物資を積んだ帆船を連れていけばいいのではないか?ハワイなどでの補給は不可能なのか?



というわけで調べてみると、二度目のベリー来航時の軍艦ポーハタンは、カリフォルニアまで太平洋航路を使っている。

1860年2月13日(安政7年1月22日)、ポーハタンは正使の新見正興、副使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77人を乗せ横浜を出港した。同じく米国に向かった咸臨丸は2月9日(安政7年1月18日)に横浜を出港している。途中激しい嵐に遭遇し、石炭を使いすぎたため、補給のためにホノルルに寄港。サンフランシスコには米国に直行した咸臨丸より遅れて、3月28日に到着した。その後、パナマ地峡経由で東海岸に向かう日本使節団をパナマまで送っている。

ポーハタン (蒸気フリゲート) - Wikipedia

これでわかるのは、ハワイで補給が可能なことと、「石炭を使いすぎたため」補給が必要になったということ。なお蒸気船といっても帆走もする。


ところで、ポーハタン号は安政7年旧暦1月22日(2月13日)横浜を出港して、旧暦3月8日(3月28日)にサンフランシスコに到着した。約1ヶ月半かかったことになる。一方ペリーは1852年11月24日ノーフォークを出港、浦賀来航は1853年7月8日のこと。7ヶ月以上かかっている。


もちろん言うまでもないが、これが最短の所要時間ではない。東インド隊司令官のペリーには他にもやることがあっただろう。