将軍足利義教は八百長で決まったのか?(その7)

2012-10-23の続き

神前御棚の上に於て畠山入道これを執る。両度これを執る。青蓮院なり。次で他人をしてこれを執らしむるの処、また青蓮院なり。三ヶ度同前と云々。(正月一八日条)

『籤引き将軍足利義教』(今谷明 講談社 2003)

建内記』で三回目にクジを引いた「他人」とは誰なのか?これが謎だ。歴史学者の方々はこれを華麗にスルーしているけれどそれでいいのか?


これを考えるに当たって、まず問題になるのは八幡に誰が参詣したのかということだ。『満済准后日記』には、

管領一人八幡ヘハ令参詣可給之申定了。仍管領戌終ニ参詣。

とあり管領畠山満家が一人で参詣したことになる。


一方の『建内記』だが、これが難解だ。

入筥■■入道(于時管領也、)細川右馬助(第の略字?)持参石清水八幡宮

とある。「■■」が「畠山」であるのは疑いない。細川右馬助とは細川持元のこと。「細川右馬助(第の略字?)」の左側に「""""""」という記号が付いているが意味不明(俺が無知だからだけど)。(知ってる人がいたらご教示お願いします)


畠山満家細川持元石清水八幡宮に参詣したということだろうか?この部分、詳細に記述している今谷明氏の『籤引き将軍 足利義教』も一切触れていない。


なお、中原師郷の『師郷記』十八日条に、

管領禅門、八幡に参詣し、御鬮(四人の御名これに入れらると云々)と取る。

とあり「管領禅門=畠山満家」のことしか書いてない。


八幡には管領だけが参詣したと考えるのが妥当だろう。それに仮に細川持元が行っていたとしても「他人」が持元であるとは考えられない。それならそう書くだろうから。



それでは「他人」とは一体何者なのか?


陰謀論的に考えれば、「他人」として名前を書かなかったのは、それを書くと都合が悪いから隠蔽されたということになるだろう。


しかし、八百長がないのに隠す必要はない。たとえ八百長があったとしても隠す理由が見つからない。超能力者に頼んで義円を引くよう頼んだとかいうのなら別だが…


(つづく)