⇒2012-10-23の続き
神前御棚の上に於て畠山入道これを執る。両度これを執る。青蓮院なり。次で他人をしてこれを執らしむるの処、また青蓮院なり。三ヶ度同前と云々。(正月一八日条)
『建内記』で三回目にクジを引いた「他人」とは誰なのか?これが謎だ。歴史学者の方々はこれを華麗にスルーしているけれどそれでいいのか?
これを考えるに当たって、まず問題になるのは八幡に誰が参詣したのかということだ。『満済准后日記』には、
一方の『建内記』だが、これが難解だ。
とある。「■■」が「畠山」であるのは疑いない。細川右馬助とは細川持元のこと。「細川右馬助(第の略字?)」の左側に「""""""」という記号が付いているが意味不明(俺が無知だからだけど)。(知ってる人がいたらご教示お願いします)
畠山満家と細川持元が石清水八幡宮に参詣したということだろうか?この部分、詳細に記述している今谷明氏の『籤引き将軍 足利義教』も一切触れていない。
なお、中原師郷の『師郷記』十八日条に、
管領禅門、八幡に参詣し、御鬮(四人の御名これに入れらると云々)と取る。
八幡には管領だけが参詣したと考えるのが妥当だろう。それに仮に細川持元が行っていたとしても「他人」が持元であるとは考えられない。それならそう書くだろうから。
それでは「他人」とは一体何者なのか?
陰謀論的に考えれば、「他人」として名前を書かなかったのは、それを書くと都合が悪いから隠蔽されたということになるだろう。
しかし、八百長がないのに隠す必要はない。たとえ八百長があったとしても隠す理由が見つからない。超能力者に頼んで義円を引くよう頼んだとかいうのなら別だが…
(つづく)