将軍足利義教は八百長で決まったのか?(その6)

神前御棚の上に於て畠山入道これを執る。両度これを執る。青蓮院なり。次で他人をしてこれを執らしむるの処、また青蓮院なり。三ヶ度同前と云々。(正月一八日条)

『籤引き将軍足利義教』(今谷明 講談社 2003)

この『建内記』の記事は事実ではない。というのが俺の結論。だが、この記事が伝える「誤情報」はなぜ生まれたのか?単に「誤って伝えられた」とすれば話は簡単だが、それでは面白くない。だけでなくこの「誤情報」にも重要な意味が隠されているかもしれない。


そもそもこのエピソードの意味するところは何であろうか?


本郷和人氏は、この「八百長」が事実であったとして、

満済と諸大名は談合して義円を戴くことを決め、その結果を補強するためにくじ引きという神事を設定した

と主張する。


今谷明氏の『籤引き将軍 足利義教』には

但し当時の人々の間に、鬮を三度ひいて三度とも青蓮院であったということが伝えられていたことは興味あることである。管領九代記には義円と賢王丸(持氏の子)との名を書いて、三度鬮をひき三度とも義円であったと記している。これは三度ひくというところに神意の確実性を認めようとしたのであろう。

という臼井信義氏の論文からの引用があり、「穿った興味深い見方を披露されている」と評価している。


本郷氏は八百長説で、今谷氏はそれを否定しているから意見は正反対だが、この点に関しては同じ意見のようだ。


確かに「くじを三回引いたら三回とも義円と出た」というのは、神意が揺ぎなかったということを意味している。それに異論はない。


しかし、それだけでは違和感があるのだ。


なぜ三回目のクジを「他人」という名無しさんが引いたのか?


その点を歴史学者の方々は華麗にスルーしておられる。だがそれこそがこの謎を解く鍵ではなかろうか?


(つづく)