明智光秀のクジ引き

信長公記(町田本・原文)
より有名な愛宕百韻の記事。

次の日、廿七日に、亀山より愛宕山へ仏詣、一宿参籠致し、惟任日向守心持御座候や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、二度三度まで鬮を取りたる由、申候、廿八日、西坊にて連歌興行、
  発句 惟任日向守
 ときは今 あめが下知る五月哉 光秀

光秀は何で三度クジを引いたのだろうか?

愛宕百韻の際、愛宕神社で意中の籤が出るまで三度おみくじを引いたと伝えられている。ただし、神籤を三度引いて三角に置き、銭を三枚放り投げて一枚だけ表裏異なる位置の神籤を神意として読むという擲銭法による占いは当時はメジャーなものであった。

光秀は変の前に三回くじを引いた(全て凶だったといわれる)という逸話もあり、決心がつきかねていたのではないかとする者もいる。

明智光秀 - Wikipedia


さて、どうなんだろう?


様々なケースを想定して、この場合は吉か凶か?それともこうしたら吉か凶かなどと占ったという可能性も無くは無い。


ただ、何度もクジを引くというのは、やっぱり凶を引いたから、もう一回、さらにもう一回と引いたんじゃないかと連想するのが自然でしょうね。
(ただし、そうなるとこの話が事実なのか極めて怪しくなる。逆に「大吉」あるいは「お気に入りのクジ」が出るまで粘ったという類の可能性もある)


ウィキペディアには「擲銭法による占いは当時はメジャーなものであった」と書いてあるけれど、『信長公記』の太田牛一がそう受け取っていたら「二度三度まで鬮を取りたる由」とは書かなかったと思われ。


なお「意中の籤が出るまで三度おみくじを引いた」とか「(全て凶だったといわれる)」とかいうのが何を出典にしているのかを俺は知らない。