『建内記』の話の核心は「八幡神に聞く」というところにあるのではなかろうか?
なぜ、足利義持の八幡宮で後継者を決めるクジをしたかといえば、八幡神が源氏の氏神だからだということは疑いない。幕府としては当然のことだろう。
しかし、公家社会には、別のことを思い浮かべる人もいたのではなかろうか?
⇒宇佐八幡宮神託事件 - Wikipedia
⇒新皇 - Wikipedia
どちらも謎が多く歴史学的には論争の種であるけれど、公家社会では「史実」と受け止められていただろう。
上の二つの事件は皇位に関する事件であり、「室町殿」や「将軍」とは違うかもしれなけれど、それでも公家社会には「八幡神が人事に係わるとろくなことにならない」という思いを抱く者がいた可能性は十分にあるのではなかろうか?
このように考えると、「くじを三回引いたら三回とも義円と出た」と「宇佐八幡宮神託事件」とには関連があるようにも見えてくる。
すなわち「宇佐八幡宮神託事件」では、一回目の神託が「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」というものであったのに対し、二回目の神託は「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」というものであり、これによって皇統が守られ事なきを得たということになるが、クジ引きの場合は、二回目も一回目と同じ結果であり、さらに三回目も同前であったことになる。八幡神の「変心」により災厄が防がれたとするなら、今回は災厄が避けられないということになる。
もちろん、既に書いたように、これは皇位に関することではなく「室町殿」に関することだから、違うといえば違うけれど、拡大解釈した可能性はあると思う。
気になるのは「日本国王」だ。
⇒日本国王 - Wikipedia
「日本国王」の称号を使ったのは足利義満で、義持は使用しなかった(明と断交した)。その「日本国王」を復活させたのが義教だ。むろんこの時点では未来の話だが、義持死後に復活するのではないかという予感はあったのではなかろうか?
もう一つ気になるのは例の足利義満の「皇位簒奪説」だ。
⇒足利義満 - Wikipedia
この説自体はいろいろ問題があるらしいが、全くの妄説というわけでもないだろう。義満が没したのが応永15(1408)年、クジ引きがあったのが応永35(1428)年。まだ20年しか経っていない。「皇位簒奪説」において皇位につくはずだった義嗣が没したのは応永25(1418)年のことだ。なお義円(義教)を含めた四人の候補者は全て義満の息子である。
俺は「皇位簒奪説」についてあまり詳しくないので、あまりつっこんだことは言えないけれど、義持の死と、義満の他の息子が後継者になること、当時の世情などがあり、さらに「八幡神の託宣」が絡むことによって、そこに乱世、さらには皇室の危機を予感させるものがあり、この話ができたのではないかという推理ができるのではないかと思うのである。