本郷氏の主張が「珍妙な考え方」だということについては、既に十分すぎるほど説明したと思うが、さらに根本的な問題があるので続ける。
それは「なぜクジを三回引いたのか?」という問題である。
俺はこの時代に正直詳しくなく、足利義教がクジで選ばれたという話は知っていたが詳細を知らず、ましてや「くじを三回引いたら三回とも義円と出た」という話は、つい先日、本郷氏の本を読んで初めて知った。
そして読んだ瞬間に頭をよぎったのがこの疑問である。
「クジは一回引けば十分ではないか!じゃんけん三回勝負じゃあるまいし…」
このクジ引きは商店街のクジ引きとはわけが違う。神意を知るためのくじ引きである。神に何度も同じこと聞くってどうなのよ?って思う。
三柱の神に聞いて多数意見を採用するということだろうか?八幡は応神天皇・比売神・神功皇后を合わせて八幡三神と言うし。ただし、多数決なら二票入ればそこで決まりだ。三回引く必要はあるまい。五回引くつもりだったのだろうか?でもそれじゃ八幡三神関係ないし。
二票で既に決定したけれど一応念のために聞いておくということだろうか?だが二回は管領が引いたのに最後の一回は「他人」という名無しさんが引いている。神に格差をつけたということだろうか?でも、それだと一票の格差があるということになる。多数決に納得しない人が出てくるかもしれない。
どうにも納得がいかない。本郷氏はそれについて何も書いていないが一体どう考えているのだろうか?
問題はそれだけじゃない。本郷氏が「確率は六四分の一で、この数字は現実にはあり得ない」と書く確率の問題だ。三回引いて三回とも義円というのは、本郷氏の言うとおり低確率だ。それより他の結果が出る可能性の方が遥かに高い。すなわち三票がバラバラか二対一になる確率が高いということだ。三票バラバラの場合は新将軍が決まらないということになるし、二対一の場合は多数決で決まるとはいえ、当選する人と、落選したが一度は神に選ばれた人が出てくるということになる。一度は神に選ばれた人や支持者が素直に納得すれば良いが、揉め事の種になる可能性も決して低くなかろう。そんなリスクの高いことをやるだろうか?
いやいやこれは八百長なんだから、そんなことには成り得ないということなのかもしれないが、八百長を知らない人から見れば、こんな怪しいクジ引きの方法そのものが疑惑の対象になるのではなかろうか?
この視点から見ても『建内記』の記事はおよそ事実だとは考えられないのである。
だが、これらとは全く別の解釈もできる。
なぜクジを三回引いたのか?『建内記』の記事は事実でないと確信しているが、それでもこれは重要な意味を持っていると思うのである。