将軍足利義教は八百長で決まったのか?(その3)

2012-10-21の続き


本郷氏の本には「同記にはくじを三回引いたら三回とも義円と出た」とだけ書いてあるけれど、より詳しく書けば『建内記』には

神前御棚の上に於て畠山入道これを執る。両度これを執る。青蓮院なり。次で他人をしてこれを執らしむるの処、また青蓮院なり。三ヶ度同前と云々。(正月一八日条)

『籤引き将軍足利義教』(今谷明 講談社 2003)

八幡宮の)神前で(管領の)畠山入道(満家)がクジを引き、さらにもう一度引いたところ、両方とも青蓮院(義円=義教)が出た。次に他の人に引かせたところまた青蓮院だったと書いてある。


これを普通に読めば、管領が神前でクジの結果を見たということだ。一度目のクジを引いた後にすぐに見たのか、二回引いたあとに見たのかは断定しがたいが、これについては後ほど。また三度目のくじを引いたのが「他人」とあり名前が書いてないことにも留意すべきである。


これが『満済准后日記』では、八幡宮の神前でクジを引いたのは同じだが、そのまま封を開けずに持ち帰り「翌日」に、「管領以下諸大名各一所に参会し、そこで管領が封を開けたところ青蓮院だったと記す(なおなぜ「翌日」だったかというと、義持は当日にはまだ生きており、義持は死後にクジをするように命令していたからである。ただし死後にクジを引くのは困難であるとの理由から今のうちに引いておいて開くのは死後にしようと「管領以下」が取り決めたからである)。


※ なお義持の命令を厳密に解釈すれば、管領以下は曲解したことになり、それは「都合の悪い事実」だと言うこともできるが、満済はそれを包み隠さず日記に書いているのである。


両者を比較すれば、単に「くじを三回引いたら三回とも義円と出た」ということだけではなく、大幅に内容が異なっているのである。


「くじを三回引いたら三回とも義円と出た」ということを満済が「都合の悪い事実」として隠蔽したというのは、既に書いたように俺には到底受け入れられない話だが、それでもなおその主張を受け入れるとして、その他の違いはどうして生じるのか?


満済にとってはは八百長を隠せば良かっただけのことだ。それは「八百長をした」ということを書かなければいいだけの話だ。(到底受け入れられないが)百歩譲って「くじを三回引いたら三回とも義円と出た」ということも八百長を疑われるので隠蔽したかったとしても、「三回引いた」ということを書かないで「(クジを引いたら)義円と出た」とだけ書けばいいことだ。


※ なお『満済准后日記』に「一回だけ引いた」と明記してあるわけではないが、文脈的に見て一回だけと解釈するのが妥当だろう。


ところが、本郷氏の主張を受け入れれば、満済は隠蔽するだけではなく「翌日に開けた」という明白な嘘をついていたことになる


満済はそんなことをする必要はなかったのだ。それどころか隠蔽しただけなら「書くのを忘れていた」とか何とかいえば言い逃れできるところを、明白な嘘を書くことによって言い逃れできないというリスクを背負うことになるのだ。


満済は馬鹿なのか?


もちろん俺はそうは思わない。八百長などなかったのだ、『満済准后日記』の方が正しいのだと考える方が余程理にかなっていると思うのだ。


(さらに続く)