また間があいてしまった。なぜかといえば実のところ、これから書くことにはかなり無理があるから。ボツにしようかとも考えた。でもトンデモなのはいつものことだしやっぱ書くことにする。
ヤマトタケルの太陽神的性格というのはその行動ルートのこと。
オウス(ヤマトタケル)は父に恐れられ、都から遠ざけるために「西方」にいるクマソタケル征伐を命じられた。叔母のヤマトヒメに衣と裳を賜り剣を懐に入れて出征した。女装したオウスに殺される前にクマソタケルはオウスに名前を献じ、そのときからヤマトタケルという。
その次が問題で、
然して還り上ります時に、山の神、河の神、また穴戸の神を皆言向け和して参上りたまひき
『古事記(中)全注訳』(次田真幸 講談社)
とある。詳しいことは後で書くけれど、要するにヤマトタケルは大和(中央)から西に向かったのである。そしてクマソタケル征伐をなしとげて今度は西から中央に移動した(はずである)。
ところが、次にイズモタケル征伐の話が出てくる。クマソタケルが九州にいたと考えれば、帰る途中に出雲に寄り征伐したと考えることはできるだろう。ただし前段とのつながりを考えると不自然ではある。またこの話は『日本書紀』には無く、崇神紀に類話がある。
『古事記(中)全注訳』の解説では
もともと出雲地方に伝えられていた説話であって、それが大和朝廷対出雲氏族の物語の中に取り入れられるとき、一方はヤマトタケルの物語となり、一方はフルネとイヒイリネの物語となったのではあるまいか。
とある。その是非は置いておくが、とにかく都に上ったはずのタケルはまだ出雲(都から見た西方)にいたのであった。
そのあとに
参上りて、覆奏したまひき
(同上)
とある。前に「参上りたまひき」とあるのに、また「参上りて」である。今度は「覆奏したまひき」とあるので都に帰ったはずだ。次に、天皇(景行)がタケルに東方征伐を命じる話が出てくる。このとき吉備臣等の祖の御耜友耳建日子(みすきともみみたけひこ)を副えられた。普通に考えればこの命令は都で受け取ったことになる。
しかしながら、俺の飛躍した考えでは『古事記』のヤマトタケル伝説の原型においてはタケルは都に帰っていないのではないかと思うのだ。ここで吉備臣等の祖の御耜友耳建日子が登場するのは彼が都にいるのではなくて、西方にいたことの名残なのではなかろうか?
俺は『古事記』におけるヤマトタケル伝説の本来の姿は太陽神神話ではなかったかと思っている。
正直に言えば、その「信念」でもって『古事記』を強引に解釈しようとしているのである。この「信念」の元ではヤマトタケル(太陽神)が東から西に移動することは太陽神であるから当然のことだが、西から東に移動することは認められないのである。太陽は西に沈んだ後に東から登るのである。
自分で書いといてなんだが無茶苦茶である。頭おかしいんじゃないかといわれても仕方がない。だからボツにしようかとも思った。
しかし元から俺に信用などありはしないし失うものなどないのである。だからツッコミどころだらけだけど、もう少し続ける。
(つづく)