アマテラスとタカミムスヒ(16) ヤマトタケルの太陽神的性格(その3)
父の景行天皇天皇より東征(「東の方十二道の荒ぶる、またまつろはぬ人等を言向け和平せ」)を命じられたヤマトタケルはの行軍ルートは
伊勢→尾張→相模→(走水海)→蝦夷平定
→足柄→甲斐→信濃→尾張→息吹山→三重→能褒野で死去
ということになっている。行きのルートは西から東へであり、太陽の進行方向と逆であることは言うまでもない。
しかし、強引に解釈すれば、ヤマトタケルが最初に出現したのは「伊勢」である。
「伊勢」は「日出ずる処」に相応しい場所である。
『古事記』においてタケルの西征の最終地点は「出雲」であった。その後タケルは大和に帰ったように記されているけれど、次に出てくる地名は「伊勢」である。
かなり強引なのは承知しているけれど、俺はヤマトタケル伝説の原型における行軍ルートは「大和」から西に進み「出雲」へ。そこから一気に「伊勢」に現れた後に西に進み「大和」に至る直前に死去したというものではなかったかと思うのだ。
さらに「大和」も省いて、「伊勢」→「征伐(熊襲・出雲)」→「伊勢」→「征伐(蝦夷)」→「伊勢」というルートだった可能性さえあると思うのである。
その場合、尾張→相模→というルートはどう説明すればいいかといえば「後付け」ということになろう。
また「クマソタケル」「イズモタケル」「蝦夷」は実は同じものだったのが、後に変化したのではないかと思うのである。
さらにさらに「伊勢」「大和」「尾張」というのも元は同じ「日出ずる処」ではなかったかと思うのである。
要するに太陽であるヤマトタケルは「東に出現し、賊を倒して、西に消え、また東に出現する」という無限ループを繰り返す存在だったのではないかと思うのである。
無茶苦茶言っているように思うだろうし、実際その可能性が高いけれど、さらに検証していく。
重ね重ね言うけれど、これは超強引な解釈である。それは俺もわかっているんで生暖かく見守ってくださいませ。
(つづく)