与謝野晶子の間違い

信玄文書の続きを書くべきところだが…

東大・本郷和人教授 そうだったのか!歴史がわかるキュレーション 第1回『軍師官兵衛で仏像が…』


「鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」という与謝野晶子の歌があるが、鎌倉大仏は釈迦ではなくて阿弥陀如来だという話。


検索すると

 仏教文学の研究家で歌人の山上々泉が昌子に問い合わせたところ昌子はその誤りを認めながら、実感を重んじる建前と既成の作品のゆえに訂正することはしない旨を申し送ったという逸話があります。  

ジュニア版 神社仏閣ミニ辞典
という記事あり(なお「大仏 "山上々泉"」
で検索すると、同文記事が数件あるが上の記事が元か?)


一方、川端康成の『山の音』という小説に

「大仏は釈迦じゃないんだよ。実は阿弥陀(あみだ)さんなんだ。まちがいだから、歌も直したが、釈迦牟尼は、で通ってる歌で、いまさら弥陀仏はとか、大仏はとか言うのでは、調子が悪いし、仏という字が重なる。しかし、こうして歌碑になると、やはりまちがいだな。」

と書かれている。ここでは「歌も直したが」とある。
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一方、こちらの記事には

1952(昭和27)年の歌碑建立当時、晶子の間違いについて、建立の世話人から相談を受けた吉野秀雄は、
「晶子自身後年このあやまりを指摘されてか、『仏なれども大仏は』と改作した短冊も現に残つてはゐるが、
これでは歌として三文の価値もない。原作のままでいいんだ。」(『与謝野晶子歌碑』)と答えています。

mamataroおでかけ日記 : 高徳院(鎌倉大仏)
とあり、間違いを知っていたがあえて元の歌を歌碑にしたのだそうだ。
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ところで、『吾妻鏡』建長4年8月17日条に

立願〈云云〉今日當彼岸第七日深澤里、奉鑄始金銅八丈釋迦如來像

とあるので与謝野晶子は知っていたのではないかという話もある、
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なお、江戸時代に書かれた「鎌倉大仏縁起 上」という史料によると、清浄泉寺(大異山 高徳院 清浄泉寺鎌倉大仏の寺院)の開基は奈良時代の僧行基で、東の惣国分寺だったという。そして大般若経と丈六の釈迦、薬師、観世音の三尊が安置されていたという。
鎌倉大仏縁起上
これは、もちろん真偽不明の代物ではあるけれど、鎌倉大仏以前に丈六の釈迦像があったという伝説が実際にあったのかもしれない。