鎌倉大仏の謎

今日も『極東ブログ』が歴史ネタとして「大仏を巡る与太話」という記事を書いているので、俺も鎌倉大仏の謎に迫ってみようと思う。といっても、正直あまり詳しくない。そして、かなり飛躍したトンデモ説でもあるので、そこんとこよろしく。


鎌倉大仏阿弥陀如来である。
高徳院(ウィキペディア)


上の記事でも書いたけれど、本地垂迹説では阿弥陀如来八幡神の本地。八幡神は源氏の氏神であり、鎌倉の鶴岡八幡宮に祀られる神。鶴岡八幡の歴史は鎌倉幕府の成立よりも古い。

康平6年(1063年)8月に河内国大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年2月には河内源氏3代目の源義家八幡太郎義家)が修復を加えた。

鶴岡八幡宮(ウィキペディア)


これが何を意味するかと言えば、鎌倉は源頼朝が幕府を開くよりも前から、軍事的・宗教的・文化的に重要な地であったことを意味する。そして、鎌倉と深い縁があるのは源氏や北条氏だけではない。


実は藤原氏にとっても重要な土地である。というのも鎌倉は藤原氏の祖、藤原鎌足の伝説がある土地だから。鎌倉の地名の由来が鎌足だという説もあるくらいだ。「藤原鎌足 鎌倉」「鎌足稲荷神社」で検索すれば、たくさんヒットする。


さらに伝説によると、藤原鎌足の玄孫に「染屋太郎大夫時忠」(由比の長者)という人物がいたとされる。さらにその子供が良弁だという伝説もある。良弁は、奈良の大仏を造った関係者である。というわけで、奈良の大仏は、伝説とはいえ、鎌倉と縁があるのである。


さて、話は飛ぶが、実は京都にも大仏があった。東福寺の大仏である。

東福寺(ウィキペディア)

嘉禎2年(1236年)、九条道家(摂政・鎌倉将軍藤原頼経の父)は、この地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する大寺院を建立することを発願、寺名は奈良の東大寺興福寺の二大寺から1字ずつ取って「東福寺」とした。5丈(約15メートル)の釈迦像を安置する仏殿の建設工事は延応元年(1239年)から始めて、完成したのは建長7年(1255年)であった。高さ5丈の本尊釈迦像は元応元年(1319年)の火災で焼失、14世紀半ば頃に再興されるが、明治14年1881年)の火災で再び焼失している。


一方の鎌倉大仏は、ウィキペディアによると、

大仏の造立については、『吾妻鏡』によると、暦仁元年(1238年)に木造の大仏の造像が開始され、その5年後に完成したという記事がある。同じ『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)に銅造の大仏が造られたという記事もあるが、「木造大仏」と「銅造大仏」との関係を含め、造像の経緯は今ひとつはっきりしていない。当初木造の大仏が造立されたが何らかの事情で失われ、代わりに造られたのが現存する銅造の大仏だとするのが定説となっている。


時代的に一致していたりする。そして九条道家は鎌倉将軍の父、もちろん藤原氏。この二つの大仏が無関係であるとは思えない。


(つづく)