一人一石説(その3)

既に書いたように

一石というのは一人の人間が一年(三百六十日)に食べる米の量を基準にして定めた単位

という説は事典類で確認することはできなかった。そのようなものを井沢氏は「予備知識」として提示しているのである。


この部分をもう少し長く引用する。

 たとえば「唯物史観」の側の学者はよく「江戸時代の農民は自分が作った米を武士階級に取り上げられ、アワやヒエのような雑穀しか口にできなかっった」と主張する。
 これ、実は、まったくのデタラメなのである。

 そう言われても納得しない人が多いだろう・
 このことは「常識」として教えられ、われわれの頭の中に刷り込まれているからだ。
 しかし、これがデタラメであることは、論理的にきちんと証明できるのである。
 証明したのは残念ながら私ではない。物理学者で理学博士の板倉聖宣氏である。
 板倉氏の論証は「歴史の見方考え方」(仮説社)に詳しく述べられているが、それを紹介する前に、少し予備知識を述べておきたい。
『逆説の日本史(1)古代黎明編』(小学館

これを読めばわかるように、井沢氏は板倉聖宣氏の論証を紹介する前に「予備知識」を述べると書いているのである。だが、その「予備知識」なるものは、少し調べただけでは見つからないのである。井沢氏はその「予備知識」をどこで仕入れたのか書いていない。


実は俺が「逆説」以外で確認できた唯一の「一人一石説」はこの板倉氏の『歴史の見方考え方』である。今手元にないので細かいことは言えないけれど、確かにこの本にはそれが主張されていた。おそらく井沢氏の「一人一石説」の出所もここであろう。つまり板倉氏の論証を紹介する前の「予備知識」自体が板倉氏のものである可能性が高いのである。


で、板倉氏の「一人一石説」が正しいのかというと、既に書いた理由その他でおそらく間違っているんだろうと思う。少なくとも他の学者は支持していないものと思われる。これについてはまた本を読んで検証してみたいと思う。


というか、この説はかなり広く普及しているので、学者がちゃんと説明すべきことなのではなかろうか?また俺より遥かにこういうことに詳しい人はいっぱいいるはずであり、そういう人も積極的に解説してほしいと切に願うのである。



※ なお江戸時代の農民が米を食べられなかったという説に関して、俺はいわゆる貧農史観は否定するけれど、しかし板倉氏(およびそれを紹介する井沢氏)の一度年貢として収公された米が巡り巡ってまた元の農民の胃袋に入る(この説の信奉者も結構いるように思われる)というのは納得いかない話である。


※ 最後に一応念の為に書いておくけれど「一人の人間が一年に一石の米を消費した」と「一人の人間が一年に消費する米を基準に一石を定めた」は全く別の話。前者にも問題があるんだけれど、ここで問題にしているのは後者。