洛中法華21ヶ寺の再建
ソースはウィキペディア
天文11年
本隆寺
寺は天文5年(1536年)天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。その後、天文11年(1542年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、同年、本隆寺は杉若若狭守邸跡の現在地に再建された[2]。
1536年(天文5年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は同年、高倉中御門の旧地に伽藍を再建した。
1536年(天文5年)天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。
1542年(天文11年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下す。
1542年(天文11年)四条西洞院に伽藍を再建する。
妙蓮寺は天文5年(1536年)、天文法華の乱で焼失し、堺に避難するが、天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、妙蓮寺は同年大宮元誓願寺通(現京都市上京区)に伽藍を再建した。
天文5年(1536年)、天文法華の乱により伽藍を焼失し、妙満寺は堺に避難。天文11年(1542年)、後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、寺は四条堀川の旧地に再建されるが、同年、豊臣秀吉の命により、寺町二条(現京都市上京区榎木町)に再移転する[3]。
1536年(天文5年)に天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。
1542年(天文11年)に帰洛を許され、四条綾小路に再建する。
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天文11年以前
1536年(天文5年)天文法華の乱で焼失し、堺に避難する。寺伝によれば、それから間もない1539年(天文8年)、関白近衛尚通が現在の地に移建し、後奈良天皇の勅願寺となるという。ただし、移建の時期については異説もある。山科言継の日記『言継卿記』の記載によれば、1545年(天文14年)の時点で本満寺は「近衛殿近所」に存在していた。この「近衛殿近所」が具体的にどこを指すかは定かでないが、本満寺の現在地(寺町通り今出川上る)には該当しない。このことから、1590年(天正18年)頃、豊臣秀吉が京都の寺院を寺町通り沿いに強制移転させた時期に本満寺も移建されたとする説もある[1]。
1536年(天文5年)の法華一揆(天文法華の乱)の際は他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難した。その後1542年(天文11年)に後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難した寺々も京都に戻ったが、本禅寺はこれを2年ほどさかのぼる1540年(天文9年)、西陣桜井町に伽藍を再建した(現・上京区智恵光院通今出川上る桜井町)[1]。
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天文13年
立本寺は1536年(天文5年)天文法華の乱で他の法華宗寺院とともに焼失し、堺に避難するが、1542年(天文11年)後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、法華宗寺院は京都へ戻ることとなった。立本寺は1544年(天文13年)新町三条に伽藍を再建した。
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天文16年以降
1536年(天文5年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼失し、堺の成就寺に避難した。1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は1547年(天文16年)、六条堀川の旧地に再建された。
その後、天文16 - 17年(1537 - 1538年)ごろ帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。
天文5年(1536年)、天文法華の乱で伽藍を焼失し、寺は堺に避難するが、天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、堺に避難していた法華宗寺院は相次いで京に戻った。妙顕寺は天文17年(1548年)、二条西洞院に再建されるが、天正12年(1584年)、豊臣秀吉の命により、現在地に移転した。
1536年(天文5年)の天文法華の乱際に寺は焼失し、堺に避難した。その後、1542年(天文11年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、妙覚寺は1548年(天文17年)、二条衣棚の旧地に再建された。
1536年(天文5年)7月27日 - 法華一揆(天文法華の乱)により上行院と住本寺焼失
1550年(天文19年)3月19日 - 上行院と住本寺が合併して要法寺となる。
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不明
1536年(天文5年)本法寺は洛中の他の法華系寺院とともに天文法華の乱で焼失し、堺に避難した。1542年(天文11年)後奈良天皇は、法華宗帰洛の綸旨を下し、本法寺は一条堀川に再建された。
妙泉寺
学養寺
大妙寺
弘経寺
宝国寺
本覚寺