徳川家康正妻はなぜ「築山殿」と呼ばれるのか?(その2)

本当は今日続きを書くつもりでなかったのだが、新情報が続々と見つかるので。


当初俺は築山殿惣持尼寺説を疑っていた。今も疑っている。だが調べていくうちに、惣持尼寺と縁がある築山稲荷に関しては、これこそが築山殿と呼ばれた理由の可能性が高いように思えてきた。また考えが変わるかもしれないが。


築山稲荷があったのは現在の岡崎市籠田町で、籠田総門の枡形(枡形虎口)を設置するために築山が削り取られた。この築山はに日本六十余州の(名山の)土を集めて築き上げたものと伝えられ、これ自体が重要な歴史遺産であるところを水野忠善の時代に削り取られたというのはとんでもないことをしてくれたものだ。伝説では本間三郎左衛門平重行(重光ともいうそうだ)が退治した白狐を埋めて稲荷神を勧請したという。本間三郎左衛門平重行というのが何者なのかよくしらないが吾妻鏡に本間三郎左衛門の尉が登場する。ただし本間(依智)三郎左衛門直重という日蓮に帰依した人物がいるそうだ。平重行という名の人物は京都の油掛地蔵の阿弥陀如来坐像に「延慶3年(1310)庚戌12月8日」「願主 平重行」とあるそうだ。本間三郎左衛門平重行の白狐退治伝説というのがあるのかはわからなかった。江戸時代に総持寺目代だった本間蔵人家の創作だろうと考えられている。惣持寺も本間三郎重光が同じく建保2年(1214)に創立したというが史実あるいは何らかの史実を反映したものなのかはわからない。


岡崎地方は足利氏の執事高氏の重氏の代に領するようになったと考えられ、一説によれば建保2年(1214)に廣祥院が建てられた後に左衛門入道心佛という者が惣持寺を建て、娘の心妙を住職とし、廣祥院の本尊・寺領を移したという。『岡崎市史』は廣祥院を建てたのが高重氏で、惣持寺を建てた心佛は高師重だと比定している。その心佛が住職(娘の心妙)に宛てた書状が残っていて、宛て名が「稲荷女房」となっている。また「いなりの女房」と書かれた下文があり鎌倉幕府の下文だと推定されている。


この「稲荷女房」の稲荷とは、築山稲荷の稲荷のことであろう(そうでない可能性もあるかもしれないが)。


なお鎌倉にも築山稲荷があり、東京の羽田にも築山稲荷がある(鳥居が有名な穴守稲荷内)。伏見稲荷の稲荷山を模しているのだろうか?あと愛知県知多郡武豊町に小桜姫という岡崎の築山稲荷に関連した伝説がある。どういう縁があって伝説が出来たのかはわからない。
武豊町観光協会 - たけとよ知恵袋


とにかく、惣持尼寺と築山稲荷は一体的なものだということはできる。しかし築山殿の時代には戦国の争乱によって寺運次第に衰えたという状態であったので、果たして築山稲荷一帯が惣持尼寺によって支配されていたのかという疑問はある。したがって、築山殿の屋敷が築山稲荷周辺にあったとしても、それをもって「築山殿が惣持尼寺にいた」ということが可能なのかといえば、そこが当時において惣持尼寺領内であったのかということとを検証しなければならないだろう。


今のところ築山殿の屋敷が「築山」という場所にあったという後世史料は見たが、そこが惣持尼寺境内だとわかる史料は見ていない。『参河志』には

其地は惣持尼寺の西隣り今は城内と成て連尺口の入口殿町の左に中の馬場東の濠に昔は此邉皆築山と称せしなり田中兵部少輔の時廓内となる

と「惣持尼寺の西隣り」とあるのだから境内ではなく外にあるとの認識だと思われる。


「連尺口の入口殿町の左に中の馬場東の濠」というのが、まだ調べてないのでよくわからないが、籠田公園に至る道が「連尺通」という名なので、やはりこの辺りではなかろうか?また「今は城内と成て」とあるのも注目すべきところで、築山殿の呼称は「築山曲輪」から来ているという説があるが、この「築山曲輪」というのは、実はこの「築山」のことであり、当時もそこが城内だったとの認識でこういう表現になった可能性は無いだろうか?


また、『三河東泉記』によれば信康の屋敷も城外にあったとされており、築山殿が城外に住んでいるのは、家康あるいは於大の方との確執などではなく、家康が浜松に移った後、信康・築山殿は城内ではなく城外に住んでいただけという可能性もあるのではないかと思われ(いただけといっても、それはそれで何故だという疑問は残るけど)。