福島正則の「西上」(その7)

『「人数之儀者被上」は正しいけれども、正しくなく「止」が正しいという可能性』とはどういうことかといえば…と、その前に4年前に話題になった「石谷家文書」の話。説明会で岡山県立博物館の内池英樹氏の話を聞いた時の話。記憶に頼るので間違ってるところがあるかもしれないけど、おおまかには合ってるはず。


この文書は岡山市にある林原美術館が所蔵するもので、調査を依頼された内池氏は最初は岡山に関係する文書だと考えたそうだ。岡山にも元親がいるし(三村元親)。ちなみに内池氏の専門は江戸時代の岡山藩池田氏とのこと。


文書を調べていくうちに、「ウハ書」だったかに「和三」という文字があって、この人物は何者だろうかということになった。文字を見る限りでは「和三」としか読めないという。で、あれこれ考えているうちに、これはもしかして「和三」ではなく「利三」すなわち「斎藤利三ではないかと気付いたとか。そんな話。


で、ここまで書けば俺が何を言いたいのかわかるだろうけれど、『武徳編年集成』には「人数之儀者被」とある。これは改竄されたものだと白峰旬氏は主張する。そして『福島家系譜』、『天正元和年中福島文書』、『福嶋氏世系之圖全』にある家康書状(写)には「人数之儀者被」とあり、特に『天正元和年中福島文書』には「于今所持仕候」と原文書を所持しているかのような記述があり、こちらの方が信憑性が高いとする。


確かにその可能性は高い。しかしながら、「人数之儀者被」は文文字として見れば「上」だったとしても、実は「止」の可能性があるのではないか?


有名な「棒の手紙」のように、「止」の字が微妙だったために「上」と判断してしまい、以後「上」で「写」が作られていった可能性もある。


なんてことを言えばいかにもご都合主義のように思われるかもしれないけれども、そういういことって古文書の世界では珍しいことではなく、割とよくあることではないだろうか?


※ なお『木簡画像データベース・木簡字典』『電子くずし字字典データベース』連携検索で「止」を入力してみると、素人目にはこれが「止」なのか?「上」じゃないのか?という微妙なのがある。


であるとするならば可能性を捨て去るべきではないと思う。


何度も繰り返すが、とにかく「西上」とは単に西に進むことではなく、「上」(京都・上方)を目的地として進むということだ。研究者がこの初歩的かつ重要な点を見落としている可能性は状況的に非常に高いと思われる。これを念頭に置いて関ヶ原合戦前夜の状況を見直す必要があると俺は思う。


(一応おしまい)