『付喪神記』と『百鬼夜行絵巻』(その5)





付喪神記』に描かれる器物でも人間でも獣でもない妖怪は何者か?『付喪神記』では

或は男女老少の姿を現はし、或は魑魅悪鬼の相を変じ、或は狐狼野干の形をあらはす。

とあるから、これらは「魑魅悪鬼」となるだろう。ただし「魑魅悪鬼」はおそらく「魑魅」と「悪鬼」に分割されるのではないかと思われ、



顔が人で体が獣のこれが「魑魅」で、上の2体が「悪鬼」ではないだろうか。なおこの「魑魅」は元は扇子の妖怪だったのが、変化を繰り返し、前に書いたように火炎によって「退化」し、さらにその後は男の姿になったと思われる。女人は成仏することが難しいという思想によるものではなかろうか?
変成男子 - Wikipedia



「悪鬼」は絵巻に頻繁に登場するけれども、この赤鬼(手棒の箸太郎と思われる)と青鬼が何度も描かれているのであって、それ以上の「悪鬼」がいるというのではないと思われる。付喪神」の行列の中にいる「悪鬼」は2体のみであり、それらをひっくるめて『付喪神記』では「妖物」と呼んでいる。

(数珠の一連上人を訪問する赤鬼・青鬼)


ただし、ここで考えなければならないのは

然るに顕宗の学者の曰く、阿含の意に依るに、道路屋宅にみな鬼神ありて、寸隙を空しうする事なし。いまこの器物の妖変を思ふに、必ずかの鬼神の託せらろなるべし。器類、豈、其の性あるべきやと云へり。嗚呼、顕関深く閉せる哉。

という記述であり、仏教の知識に乏しいので解釈が難しいけれども、一応「顕宗の学者」は「器物の妖変」について、器物は「性」を持っていないので(生命の無いただの物質なので)、器物が自発的に妖変するはずがない。鬼神が憑依するとか操るとかしてるのだろう。という意味ではないかと思う。当たらずとも大きく外れてはないだろう。もちろん『付喪神記』の作者はそれを否定する立場だが、それは器物が自主的に妖変することはありえるという意味での否定である。


だとすれば、器物が妖変して「悪鬼」の姿になったといっても、それは「鬼神」のことではないということになるのではないだろうか。よって『付喪神記』における「悪鬼」は、名前は「悪鬼」と「鬼」の名前がついていても、器物の変化した「付喪神」の一種にすぎないということになるだろう。「鬼(「鬼神」)と「付喪神」は別物ということになるのではないか?


ややこしいのは、付喪神達の行列は、『大鏡』「師輔伝」の関白九条師輔が百鬼夜行に遭遇したという話がモデルになっていると考えられることで、であるならば「百鬼夜行付喪神の行列」ということになる。しかしながら「付喪神」は「鬼神」ではない。なお「師輔伝」の百鬼夜行がどんなものだったかの描写は無い。しかし、ここでさらにややこしいのは百鬼夜行は本来は鬼神の行列のことであっただろうと考えられるけれども必ずしもそうとは限らないということ。辞書でも

妖怪が列をなして、夜中に歩くこと。中古から中世の迷信。夜行やぎよう。 (大辞林 第三版の解説)
百鬼夜行(ヒャッキヤギョウ)とは - コトバンク

となっている。よって一口に「百鬼夜行」といっても鬼神の行列の場合もあれば、それ以外の行列の場合もある。本来は鬼神の行列であった過去の百鬼夜行が違う解釈をされる場合もあるだろう。とにかくややこしいけれども、少なくとも言えるのは付喪神記』の行列は鬼神の行進ではなく「悪鬼」もあくまで付喪神の一種だということ。


ところで『付喪神記』には二系統あり、崇福寺本(非情成仏絵)には

或は男女老少の姿を現し、或魑魅悪鬼の相を変し、或は狐狼野干の形をあらわす。色々さま/\なるありさま、おそろしとも中々申はかりなし。百鬼夜行なとゝ申事は無候しより、たゝ人のいゝつたへたる、空ことかと思侍るに、まのあたりかやうの事の候けるそや、あさましさは。
⇒[付喪神絵巻]国会図書館本と崇福寺本の相違点[まとめ]:烏山奏春のブロマガ - ブロマガ

という国会図書館本には無い記述がある(太字部分)。付喪神の妖変を「百鬼夜行」と表現している。鬼神でなくても「百鬼夜行」と表現することはあるとはいえる。ただし、「たゝ人のいゝつたへたる、空ことか」と以前から伝えられてる百鬼夜行の実在を疑っていたところ「まのあたり(眼前)」とあるからには、これは同時代人の視点のように見えるにも関わらず「こゝに康保の頃にや」と「厚保(964-968)の頃だろうか?」とあるのは不自然に感じる。これをどう解釈すればいいのだろうか?様々な可能性があるだろう。不自然に見えるけど不自然ではない可能性とか、実は絵巻を見た人が附記したものが本文と勘違いされて模本では本文と同化してしまったとか。


あと、崇福寺本には行列の描写が無い。にも拘わらず「百鬼夜行」とある。文脈的には器物が妖変したことを「百鬼夜行」と表現していると読解できる。「百鬼夜行」とは百鬼が夜行(夜中に出歩くこと)することではないのか?と言いたいところだが、これもややこしいことに、夜中に出歩いてなくても「百鬼夜行」と呼ぶことがあるそうだ。だからこれが不自然な表記なのかそうでないのかという判断も難しいところ。


(つづく)