付喪神について(その13)

まだまだ論じたいことはあるけれど、もう限界。一番気になるのは、「精霊」「心」「情」といった言葉が何を意味するのかということ。


「心」については

我に若し天地陰陽の工にあはば、必ず無心を変じて精霊を得べし。

 或時、妖物の中に申しけるは、「夫れ我が朝は本より神国にて、人みな神道を信じ奉る。我等すでに形を造化神にうけながら、彼の神をあがめ奉らざる事、心なき木石の如し、今よりして此の神を氏神と定めて、如在礼奠を致さば、運命久しく保つて、子孫繁昌せむ事疑ひあらじ。」とて、

とあり、妖物になる前の道具達は「無心」だったのが、妖物になった後には「彼の神をあがめ奉らざる事、心なき木石の如し」と自分達は「心」を持っており、木や石とは違うんだと言う意識を持っている。


ただし「数珠の入道一連」は道具達が変化する節分より前に「道心者」と説明されている。「道心」とは

  1. 是非を判断して、正しい道をふみおこなう心。道徳心。良心。
  2. 仏教を信じる心。出家者となって、修行に励む心。菩提心ぼだいしん。
  3. 出家者。特に一三歳または一五歳で出家となった者。 「今−」 「青−」

デジタル大辞泉の解説

また

一筋に思ひもきらぬ玉の緒の結ぼられたるわが心かな

と詠んでいる。なお既に書いたように「数珠の入道一連」は道具達の決定に賛同しなかったので、元は数珠だった彼の発心修行成仏までの道筋が不明というか普通に読めば辻褄が合わない。


「数珠の入道一連」の件は例外として置いといて、その他の道具達について考えれば、心が無い状態の時点で、自分達を捨てた人間に恨みを持つなど、それは「心」があるからではないのか?と思うけれども、無いということになっているのだから、ここでいう「心」とは何かということを考えなければならない。


一応考えられるのは「発心(菩提心)」が重要なテーマになっているということ。上に引用したように「彼の神をあがめ奉らざる事、心なき木石の如し」と「心」が神をあがめることに関連付けられているので「仏道にはいる心=菩提心」という意味の「心」を、神をあがめる心にも適用しているのではないかと考えられるから。すなわち「心」とは「神または仏をあがめる心」という意味ではないかと考えられる。自信は無いけど。すると、

陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す

も、昨日は「幻覚を見せる」みたいなことではないかと推理したけれども、付喪神が信心を邪魔するという意味ではないだろうか?(要検討)


次に「情」だけれども、これは「草木非情、発心修行成仏」というように使われる。これはもちろん『付喪神記』が作った言葉ではなくて、仏教の教義なのだが、上に「無心」とあり、こっちに「非情」とあるから、これは同じ意味なのかと最初は思ったけれども、違うのだろう。ここでいう「情」というのが、我々が一般的に使う「心」と同じ意味だと思われる


ということは、「心」を持つ前の道具達にも「情」があったと解釈できないこともない。ただし、そう解釈したとして、じゃあいつから「情」を持ったのか?ということが問題になるわけだが…