付喪神について(その12)

付喪神記』は内容に矛盾があるように見える。矛盾してると断言できれば話は割と簡単だけれど、もしかしたら矛盾ではないかもしれないと考えて理解しようとすると、何通りもの可能性が出てきて深みにはまってしまうのであった。

陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑す、これを付喪神と号すと云へり。是れによりて世俗、毎年、立春に先立ちて、人家の古道具を払ひ出だして、路吹に棄つる事侍り、これを煤払と云ふ。

『陰陽雑記』という書物にあるという「付喪神」と、本文に出てくる「妖物」とは別物であろう。なぜなら「妖物」は捨てられたから化けたのだから。『陰陽雑記』の「付喪神」は家に置いておいても「人の心を誑す」ものである。その器物が妖怪変化の姿をしているのなら家人は絶対に気付くはずだから、家人には化したと気付かないのだと考えられる。すなわち百年経過しても見た目は何ら変わりはないということになるだろう。


「誑す(たぶらかす)」とは「だましまどわす。あざむく。」という意味だが、具体的にどんなことになるのかは不明。幻覚を見せるとかだろうか?あるいは持ち主の性格が変化するとかだろうか?そこが良くわからない。これが刀だと持ってる人が殺人鬼になるとか連想するけれども、器物といってもいろいろで、だったら茶碗の付喪神がいるとどうなるんだ?食欲が増すのか?などと考えると、そういうことではなくて、(器物の持つ特徴とは特に関係のない)幻覚を見せる的なものではないかと思うが確かなことはわからない。


じゃあ本文に出てくる「妖物」は付喪神ではないのかといえば、そうではなく、これもまた付喪神であろう。なぜなら『陰陽雑記』にいう「付喪神」は「化して精霊を得てより」とあり、本文の「妖物」も「我に若し天地陰陽の工にあはば、必ず無心を変じて精霊を得べし」とあるから。よって『陰陽雑記』の「付喪神A」と本文の「付喪神B」はどっちも付喪神だが、同じものではないということになる。なお本文の「妖物」は明らかに器物(古文・棒・数珠)の持つ特徴が反映している。


しかし、別種の付喪神が同時に存在するというのもおかしな話であるから、これは矛盾というべきだろう。もっとも冒頭は『陰陽雑記』という書物にそう書いてあるという話で、本文は「実際にあった出来事(という体裁)」だから、本文の方が本当の付喪神という解釈は一応できないこともない。ただし『陰陽雑記』の記述は誤りだといった説明はなく、むしろ肯定している感じがあるので解釈が難しい。


で、付喪神という妖怪が『付喪神記』以前から存在するのであれば、いろいろな説があってそのような矛盾が生じることもあるだろうと思われるけれども、おそらく『陰陽雑記』なるものは創作であろうと考えられ、付喪神という妖怪もここで初めて作られたものだあと考えられ、だとすればこの矛盾自体が作者が意図的に作ったもの、あるいは矛盾してることに気付かなかった作者の落ち度ということになるが、どっちなのかわからない。もちろん『陰陽雑記』なるものが実在する可能性もあるけれど、しかしながら既に説明したように「つくもがみ」という名前の由来としては「百年経過した器物」よりも「不要になった(捨てられた)器物」の方が合理的に説明がつくと俺は思うのである。また『伊勢物語抄』の付喪神の説明も狸𤞟狐狼が変化したものとあるが、これはおそらく「器物が狐狼野干に変化した絵巻の絵」を見て「狐狸の変かしたもの」と誤解したことによるのではないかと思う。一応冒頭は他者が後付けしたものとも考えられなくもないけれど、本文に「件の煤払とて」と冒頭を前提とした文があるし、可能性は低いのではないかと思う。


このあたり何が本当のことかを考えると様々な可能性が浮かんできて確実なことは何も言えない。ただ矛盾している(少なくともそう見える)ということは確かで、それを無視して一貫性のある付喪神像を作ってしまうと誤ってしまうだろうということだけは言っておきたい。