アゴラの呉座氏の井沢元彦批判は適切か?(簡易版)
昨日書いた記事が長すぎるので簡易版(+前回に少し加えたもの)
井沢元彦氏の主張は、その是非以前に、前提となる事実の提示の段階で歪みがある。主張の是非にだけ囚われていると落とし穴にはまる。※この件に限らず井沢氏の主張を読むときに注意すべきことである。
①井沢元彦氏の主張における事実の提示の問題点(その1)
(1)井沢氏は「状況証拠で勘助が存在したと推論できても」というが、その肝心の「状況証拠」が何かが示されてない。逆に勘助不在の状況証拠なら揃っている。
(2)明治に田中義成はまさに「状況証拠による推論」で『甲陽軍鑑』の山本勘助の活躍を否定した。
(3)さらに田中義成は「状況証拠による推論」で山県昌景の一兵卒に過ぎない山本勘助の実在を肯定した。
(4)これらは「証拠がなければ絶対に認めない」という態度ではなく、状況証拠によって推論した事例。これらの事例を井沢氏は知っている。
(5)目の前に歴史学者が状況証拠による推論で認めた事例があるのに「推論できても、証拠が出ない限り絶対ダメだというのが歴史学界の頭の固さ」と批判している。
※ この場合の「状況証拠による推論」とは、直接に証明する一次(同時代)史料を欠く推論という意味。
②井沢元彦氏の主張における事実の提示の問題点(その2)
「市河文書」の発見は「山本菅助」という人物の実在を立証したが、『甲陽軍鑑』の山本勘助を立証したものではない。
歴史学界は手のひらを返したように「勘助は実在した可能性が高い」といい出しました
というのは、武田家臣の山本菅助の実在と『甲陽軍鑑』の山本勘助の実在を混同したもの。歴史学界が手のひらを返したというのは事実に反する。
※ これは山本勘助について記されたものの多くに説明されていることであり、この歪みの原因が井沢氏の無知・無理解によるものなのか疑問ではある。
※ なお「市河文書」発見以前の歴史学界において、「山本勘助という名前の人物」の実在までが否定されていたのかは、「伝説」「架空」とはどういう意味か?という問題があって明確ではないと思う。少なくとも一兵卒の勘助の実在を肯定した田中義成説を継承した学者もいるので、学界の全てが否定していたわけではない。
③呉座勇一氏の井沢元彦批判の問題点(その1)
井沢氏は、歴史学界が「手のひらを返した」ことを卑怯なことのように言うが、史料が出てきたら見解を訂正するのは当たり前である。新史料によって自説が否定されたのに、屁理屈をこねて自説に固執する方がよほど恥ずかしい。
既に書いたように、歴史学界が手のひらを返したという事実が存在しない。「史料が出てきたら見解を訂正するのは当たり前」は正論だろうが、このケースではあてはまらないのであり、それを指摘しなければ、井沢氏の提示した「事実」を承認した形になってしまう。
※勘助が一兵卒だったという見解が訂正されたということはあったが、そういう話がされているわけではない。
④呉座勇一氏の井沢元彦批判の問題点(その2)
以下のインタビュー記事でも答えたが、史料がないから確たることは言えない場合、「わからない」とはっきり認めることが歴史学者の「勇気」である。作家は個人だが、学者は学界の一員である。現時点で答えが出なくても、将来史料が出てきて答えが出るかもしれない。次代の研究者に後を託すのもひとつの見識と言える。
史料に書いていないことを想像で埋めるのは歴史小説には有用だが、歴史的事実を解明する上では有害である。仮に作家の想像が、後に史料で裏付けられたとしても、それはその作家の手柄ではなく、ただのまぐれ当たりである。当たった時だけ「ほれ見たことか!」と喧伝する、たちの悪い占い師や予言者と何ら異なるところがない。
記事のタイトルに「歴史学と歴史小説のあいだ」とあるように、学者と作家の違いを強調しているけれども、田中義成博士は同時代史料が無いにも関わらず、一兵卒の山本勘助の実在を肯定したのであって「わからない」としたのではない。田中博士は明治の学者であって現代の水準からすれば問題があるとすることもできるけれど、とにかく近代以降の歴史学でも状況証拠による推論をしているという事実がある。
※ また『甲陽軍鑑』の史料価値を否定したのみならず、小幡景憲が高坂弾正に仮託して作成したとするのも、それを直接立証する(一次)史料は存在しないのだから状況証拠による推論ということになるだろう。
一次史料に書いてないことが事実として(歴史学者によって)認められているということは別に珍しいことではない。近年は一次史料のみによって検証しようとする動きが活発だが、ごく最近のことだし、今でもそういう学者ばかりというわけでもない。
したがって、この件に関して学者だとか作家だとかで区別することに意味はない。単に、その「状況証拠による推論」がその当時の研究水準において妥当だったか否かが問題になるのみである。