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⇒山本八重と山本五十六と山本勘助 - 国家鮟鱇
に「調べてみると面白そう」って書いたんだけれどなかなか調べる余裕がない。
ただ、少し反応があったんで書いておくと、そもそも山本勘助は実在するのかさえ疑問視されるほどの謎の人物(一応「山本菅助」と書かれた史料が発見されてはいるけれど)。当然子孫についても確実な史料は残っていない。
山本五十六が養子になった越後の山本氏については、藩主の牧野氏が三河牛久保の出であり、山本氏も同じく牛久保の土豪である。山本勘助伝説でも牛久保が関係するので。五十六の山本氏が勘助の直系ではないとしても何らかの関係がありそうではある。
一方、会津の山本氏の先祖は藩祖保科正之に仕えた山本道珍という人物であり茶道頭であったという。この道珍の祖先が山本勘助だというのだが、その根拠はわからない。
検索してみると『新島八重と夫、襄: 会津・京都・同志社』(早川廣中、本井康博)という本に比較的詳しいことが書いてあるらしい。
⇒新島八重と夫、襄: 会津・京都・同志社 - 早川廣中, 本井康博 - Google ブックス
それで一時期、山本勘助の子孫だということを名乗っていた時代がある
のだそうだ。この「一時期」というのがいつのことかわからない。ただ「それで」とあるので近現代の「一時期」ような感じがする。事実でないとしても伝説として長期間そう信じられていたというのなら興味深いが、そういうことではなさそうだ(断定できないけれど)。
山本道珍という人物は遠州流の茶道家だったそうで、この「遠州」から山本勘助と結び付けられたのだろうか?ちなみに「遠州」とは小堀遠州のことであり遠江守だったから遠州なのであって、遠江の地と直接の関係はない。
なお、江戸時代前期の茶人・作庭家に山本道句という人物がいて道珍との関係が気になるが不明。
⇒山本道句 とは - コトバンク
※ あと勘助は道安と改名し法号は「道鬼」とされるので、そこから結び付けられたのかもしれない。