民話と教訓

池田香代子氏「民話を殺したのは誰か」連続TW - Togetter
という記事が人気エントリーになっている。


池田香代子氏といえば俺が知ってるのは「世界がもし100人の村だったら」の訳者であることと、とサヨク御用達の文化人として奇妙な発言をよくする人だということだ(ちなみに「奇妙な発言」とは保守の俺から見て奇妙というだけでなくサヨクから見たって奇妙な論理のはずなのに結論だけは彼らと同じだから支持されているのだろうというウヨサヨ問わずよくあるケースの一つだろうという意味である)。ウィキペディアを見ると、

池田 香代子(いけだ かよこ、1948年12月21日 - )は日本のドイツ文学者・児童文学者・翻訳家・口承文学および都市伝説研究家・エッセイスト、平和運動家。

池田香代子 - Wikipedia
と書いてある。一般人よりは知識があるかもしれないが、研究家といっても、いわゆる「在野の研究家」の類だろう。


俺も神話・伝説・民話に興味がるといっても、深い知識があるわけではない。だからこの記事が間違っていると断言できるものではない。だが疑念がいっぱいある。

フォーク(人々の)ロア(知恵)の華、民話は面白くてためになるもの、娯楽であって教訓も含んでいた。例えば、厳しい労働の裏返しで、怠ける事の快楽が語られた(cf.わらしべ長者)。例えば、嘘についての教訓は世界共通で2つ。弱い者は時には嘘ついてでも生き延びろ(とんち話、動物物語)(続

そして嘘は見抜け。近代国民国家パロール共同体(cf.ドイツ語を話す人が住むところがドイツ)、これが言語ナショナリズム(前近代は王の領地が王国)。それで近代、言語学や言語史、民俗学等が盛んになった。これらには国民国家の正統性を裏付けるための学問という側面があった(続

民話を聞いてどう受け取ろうとそれは個人の自由であり、民話から教訓を得たって構わない。同じ民話から人によって正反対の教訓を得ることだってできるかもしれない。しかし「教訓も含んでいた」というような言い方をするのは、そういう意味ではないだろう。「厳しい労働の裏返しで、怠ける事の快楽が語られた(cf.わらしべ長者)」というからには、受け手がそう受け取るということではなく、語り手がその意図を込めて語るということだろう。


しかし。本当にそうだろうか?


『民話想』にはこう書いてある。

 メルヘンは子供のためのもの。この認識は民話研究にも影響を与えている。ブルーノ・ベッテルハイムはグリムのメルヘンなどを精神分析的見地から解釈し、「少年少女の内面葛藤・性の目覚め・大人への成長」が語られていると説いた。彼の解釈は「メルヘンは子供のためのものであり、子供の教育に役立つ教訓が含まれている」という前提の上に成り立っている。研究者の中には「(子供のための話なのだから)メルヘンはハッピーエンドであるのが普通」と前提して研究・解釈を行う者もいた。研究者でなくとも、昔話を聞くとすぐさま「それで、この話の教訓は何なの?」と訊ねる人は少なからずいる。メルヘン・昔話は子供を教育するためのもの、という認識は非常に根強い。

 実際、その目的で語られたこともあるのだろう。メルヘンの語り手は無数におり、それぞれの意図によって同じ物語を異なるニュアンスで語る。子供を諭す教材として利用した語り手も多くいたことだろう。

 だが、そればかりではないはずだ。

民話想


池田氏は「子供のためのもの」という話をしていないので少しずれるけれど、「教訓を含んでいた」という考えは、ここで紹介されている考え方と同じだ。


俺は「実際、その目的で語られたこともあるのだろう」「だが、そればかりではないはずだ」という「民話想」の意見に大いに同意する。


せいぜい「民話には教訓を含んでいるものもある」といった程度だろう。