「卑弥呼」が実名でないのは良いとして

卑弥呼は実名ではなくて称号だ。古くは白鳥庫吉がそれを指摘している。研究者の間ではほぼ共通認識だと言ってよいのではなかろうか。それは良い。


問題はそれから先で、「卑弥呼」とは日巫女だとか日御子だとか姫子だとかいった話になって、「卑弥呼」とは何かということになる。それはもちろん必要な考察だろう。しかし他にも考えるべきことがあるのではないか?


なぜ「魏志倭人伝」は彼女のことを「卑弥呼」と記すのかということだ。倭人が「ヒミコ」とか「ヒメコ」と呼んでいたものを「卑弥呼」と表記したということは間違いないだろう。しかし、それだけでは十分ではないと思う。


遠山美都男氏は、一歩踏み込んで『改訂新版 卑弥呼誕生』(講談社現代新書)にて

卑弥呼とは、王権の中枢にあって特定の女性が就任する地位・身分の呼称と見なすべきである。この地位・身分に最初に就任した女性の個人名は残念なことに不明であるが、その後を継ぎ二代目卑弥呼になった女性の名前は台与といった。『魏志倭人伝のもとになった記録・情報を採取した中国人は、倭国の王権構成について倭人に尋ねたさいに重大な誤認をしてしまったか、あるいは『魏志倭人伝をまとめた陳寿自身が、入手した資料に独自の解釈を加えてしまった可能性がみとめられよう。

という見解を示している。しかしこれが当たっているかはわからない。他の研究者がどう考えているのかというと、今まで見た本では遠山氏以外でそれについての見解を提示しているものが見当たらない。遠山氏は、

これら先学の実に的確な指摘にも拘わらず、卑弥呼が女王の個人名であるという見方は、現在も修正されることなく一般に広く流布し、いわば定説化されている観がある。

とも書いているけれど、この際「一般」のことはどうでもいい。問題は学界だ。学界においては、さすがに卑弥呼は個人名ではないということは認識されているだろうが、それだけのことで、それ以上の問題意識を持っている人は少ないのではないか?


本当に中国側は卑弥呼が個人名だと誤解したのか?誤解したとして「誰が」誤解したのか?


魏志倭人伝は以下のように記す

 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏將送詣京都。
 其年十二月、詔書報倭女王、曰、

「制詔親魏倭王卑彌呼。
 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利、奉汝所獻男生口四人・女生口六人・斑布二匹二𠀋、以到。
 汝所在踰遠、乃遣使貢獻。是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授。汝其綏撫種人、勉爲孝順。
 汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米爲率善中郎將、牛利爲率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。
 今以絳地交龍錦五匹 ・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。 又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利、還到録受。 悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也」

魏志倭人伝 - Wikisource


ここに「制詔親魏倭王卑彌呼」とある。


素直に読めば「詔書」にそう書いてあったということでしょう。もちろん歴史書に文書からの引用のように書いてあっても実は創作だということは良くある。だが本物の可能性もある。俺は中国の詔書の真贋を見分ける能力を全く持ち合わせていないから判断できない。そしてやはりこれについての研究者の見解も知らない。


もし、これが本物だったとしたら魏は公式に「親魏倭王卑彌呼」と呼んでいたことになる。


すなわち陳寿等の歴史資料の作成者が誤認したのではないということになるのではあるまいか?


ところで、「親魏○王」の後に続くのは個人名でなければならないという規則があるのだろうか?俺は無知だからわからない。当然そのくらいのことは検証されていると思いたいが研究者の見解がわからない。


また、この詔書倭国側に伝えられたのだから当然倭国側も自分達の王の名を魏側で「卑弥呼」と呼んでいることを知っていたはずだと思われる。その際、もし誤認だったら誤認だという指摘をするのではあるまいか?


特に遠山氏の言うように卑弥呼が女王でなかったとしたら当然指摘するのではあるまいか?少なくとも倭国側でも「卑弥呼」が倭国の王であることを承認していたということになるのではなかろうか(だからといって本物の王が別にいた可能性を否定できないが)。


また「卑弥呼」が女王の個人名ではなく称号だということも指摘するのではなかろうか?ただし倭国側が魏側のそういった儀礼に通じてなくて誤認していることがわからなかった可能性も無くはない。あるいは個人名を明かすことができないので倭国側から「卑弥呼」を個人名であると説明した可能性もあるかもしれない。あるいは倭国と魏側で協議してそう決めたのかもしれない。様々な可能性が考えられるのではあるまいか?この問題は台与(壱与)の問題にも関連する。


※ なお詔書に「卑彌呼」と書いてあったのだとすれば、これは歴史書の作者が勝手に当て字したものではなくて「卑彌呼」は魏の公式な表記ということになるだろう。これって常識?これもまた言及されたものを見たことがない。ただし「魏書 帝紀」には「俾彌呼」と表記されている。「俾」と「卑」の違いは、「倭」と「委」の違いを想起させる。単に違うというだけでなく何らかの理由で使い分けされているのかもしれないなんて思う。